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それぞれのやりたいことがそれぞれの喜びであることが仲間への第一歩

アゴラ(言論プラットフォーム)の記事「なぜ学校に通わなければならないのか」については、私にも思うところがある。

私にとって、学校で得たものはすごく少なかった。例えば人間関係を挙げれば、学生の頃の付き合いが未だに続いているというような人なんて一人もいやしないし、たぶん、道端でかつての同級生とすれ違っても私は分からないだろうし、分かっても声も掛けないだろう。未だに10年以上の付き合いがあるというような人は、アルバイト先で知り合った先輩や、職場での同僚だけだ。まったく違う土地で生まれ育って、まったく違う思想を持って生きていて、現在は全く異なる職種に就いているのに、未だに連絡を取り合う仲にあるのは、学校外で出会った人たちだけだ。

彼らには、同じ世代として同じ教育を受けてきた者たちには無い何か特別なものがあるのかと思っていたのだが、むしろ逆で、同じ教育を受けていた者たちに対して、特別にネガティブな思いがある。まず一番イヤだったのは、「俺たちは対等だ」という、無条件の仲間意識だ。初対面で、昇降口でいきなり、「今日から友達な、宜しく!」と馴れ馴れしく近寄ってくる奴が一人や二人じゃなかったし、始まりから仲間であることが前提の集団生活にはかなりの違和感があった。「惡の華」の記事でも話題にしたが、ちょっとした和を乱す言動によってあっという間にイジメに発展するのが学校という特殊なコミュニティだ。「常に仲間であれ」が先行していて、そこから外れるものから敵にされていく。

私はとにかく早く社会に出たかった。逃げたかったというべきかもしれない。

しかし、18歳前後になれば「そういう人もいるよね」と、子どもたちはフリースクール出身でも特に違和感なく溶け込めるというのです。

学校という閉鎖空間にいると自分と同じ境遇の仲間しかいないという錯覚に陥るのか、異なる者を排除したくなる心理が働く。ただ社会では逆で、異なる者ばかりが集まってひとつの集団を形成しなければならないから、この「そういう人もいるよね」という思想が成り立ってくる。それが人と人との面白さだと気がつくのも社会に出てからだ。

早い内から、子供の頃から大人に触れるのは、大人との距離感を適切に取れなくなって礼儀を知らない精神性を形成してしまうという弊害もあるのだが、多様な人間性に多感な時期に触れておくのも重要なんじゃないかと思うことがある。それは大人じゃなくても良くて、三年か四年くらい歳の離れた、喧嘩にならない境界の歳の差というのがあると思うのだが、それくらいの距離感、関係性で学ぶ集団生活は、その後の社会進出への訓練としても適切な環境なんじゃないかと思っている。歳が離れていたら友だちができない仲間ができないという考えは間違っている。実際、歳が離れているのにすごく仲が良いということは多々あるはずだ。

しかしそれらの体験を今や学校で行わなければならない、という時代ではなくなったのではないでしょうか。つまり学校教育以外の新しい選択肢が積極的に選ばれてもよい時代になったと思うのです。

この記事にある通り、知識、学問は、もうこの時代、学校で学ぶ必要はないと思うし、学校内の特殊な人間関係に疲弊し切ってまで付き合うことはまったくなくて、フリースクールの方が遥かに人格形成に優れた環境かもしれないのだ。今日からこの教室のみんなは仲間です、から始まる人間関係は、本当の仲間の存在を盲目にさせてしまうと思う。LINEの返事が無いと言って切れるような関係を仲間と錯覚させてしまっているのは、もっと深刻に考えた方が良いと思う。

誰も逆らわず、誰も反対せず、自分のやりたいことをのびのびとやれることが喜びなのではなく、相手にやりたいことが見つかってのびのびとやれている様を見せつけられたときに、それが素直に自分の喜びと結びついていることが本当の仲間の始まりなのだと私は思っている。

(アシベズヘア/facebook

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