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学校の教科書に載っているような物語を読ませただけで子供の感性が豊かになると語るな

子供の活字離れが・・・・・・と未だに耳にするが、本当に活字から離れているだろうか? それは潔癖な大人たちが子供らを眺めたとき、学校の教科書に載っているようなクソ面白くない物語から離れていっているからそう見えるだけだろう。

今は昔よりもずっと活字に親しみやすくなったと言えるのではないか。質を抜きにすれば、ケータイ小説が台頭してきて、ライトノベルも安定し、電子書籍も普及してきた。例えば私だったら、小説をよく読むが、中学から高校くらいに掛けてブックオフが世に出てきて、その頃から100円で古本の小説を買うようになった。それまでは物語というものは学校の教科書に載っているような教訓じみた逆にイカレタものしかこの世にないと思っていたので、もっと早くに知るべき世界だったと高校生という幼いながらにも思ったものだ。ブックオフで100円の小説に手を伸ばしたのは単なる暇つぶしで、確か初めてはフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」かダシール・ハメットの「マルタの鷹」だった。何かで耳にしたタイトルだった、それだけなのだ。

読書というものは本来そういうものだと思う。感性が豊かになるから、という教育的なアプローチで迫るのが本当に良くなくて、実際、学校の教材で取り扱われる内容は、非常に幼稚で、現実味がなく、それでいて堅苦しくて、教訓じみていて、何も共感ができない。また、明らかな空想の世界であり、ファンタスティックすぎるのだ。小学校の低学年ならまだいいかもしれないが、それでも、のめり込むような物語は私には存在しなかった。高学年に単なる夢物語は辛いだけで、本来の娯楽にも満たないものを教育機関は教材に揃えている。それが逆に子供たちの感性を封じ込めている。大人になっても捨てられない教科書が、本当の教科書だ。そんな教科書には出会ったことが無い。

少し前に閲覧制限で話題になったが、中学校でやたらと人気になるのが「はだしのゲン」だ。学校に唯一存在する漫画が「はだしのゲン」だから退屈しのぎで読むのかもしれないが、あれはどんな教科書の物語を読むよりも子供ながらに説得力を感じていた。「過激な描写だ」と言って教育現場から排除するのがまさに狂った教育で、どうも潔癖なものをイコール神聖な教育と取り違えているような気がする。そんなものに囲まれていても、子供の本当の感性など、育ちようがない。「過激な描写だ」と言ってしまうくらい、あれは心に響くものだということだ。単なるグロ漫画ではないということだ。そういうものこそ、気軽に手に取れる場所にあるべきで、それによって子供が何を感じるか、何を得るか、それが本来の豊かな感性を育む「教育」というものだろう。

そもそも、読書は「勉強」だ、と植え込まれる日本の教育が悪だろう。読書感想文などその最たるものだ。本を読まなければならない、感想を述べなければならない、採点され優劣をつけられてしまう、活字離れを引き起こしている発端は学校教育だろう。感受性は人それぞれ、優劣などつけてはならない。学校で褒められるような優等生ぶったガキの感想など、面白くもなんともない。あんな感想は潔癖な大人たちによって歪まれたもので、不幸な事故と同じだ。その後遺症を抱えたまま大人になってしまうのが本当に可哀想だ。つまらない人間になってつまらないまま死ぬだろう。

今、学校では読書による教育的効果が見直されていて、読書の時間を週に何度も設ける学校が増えているという。きっと、それは読むものが定められているに違いない。本当に子供の感受性を豊かにするつもりなら、教科書の外に存在する本当の文学を読ませてやるべきだ。

私は中学~高校に掛けて小説を読むようになったが、本当に心から文学が面白いと思ったのは村上龍の「ライン」を読んでからだ。いや、村上龍という人間を知ったことですべてを面白いと思うようになったのかもしれない。絶対に学校教育の中では触れることのない世界だったので、自分がどれほど狭い世界で生きているんだと痛感させられた瞬間でもあった。これを契機に私は大学を辞めた。

それからもう十何年、小説ばかり読むようになったが、私が活字をまともにを読んだことない子供たちに勧めるのは、決まって、神林長平の「言壺」だ。この作品は、言葉そのものについて考えさせられる、究極に面白い言葉遊びだと思う。言葉とは何か、まずその面白さから触れてもらっている。

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