名前で呼ぶことの絆
過去に、男女関わらずだが、何年も人間関係が継続しているのにどうもいつまで経っても関係がしっくり来ないということがあったときに、ふと、私がその人のことを名前で呼び掛けたことがほとんど無かったということに気がついた。
名前というのは、下の名前という意味ではなく、「なあ」とか「ねえ」とか「おい」とか、こういうレベルでしか呼び掛けたことが無かったということだ。
例えば、2年以上もお付き合いをしていた女性2人に対して、「どうも関係に違和感があるな」と思っていたら、私は彼女らのことを普段まったく名前で呼んでいなかった。改めて名前で呼びたい、とも思えなかった。学生の頃、クラス替えまでの一年の間、比較的お話した同級生も、気がつけば名前で呼んだことがほとんどなくて、クラスが替われば、卒業すれば、その同級生とは完全に縁を切りたいと、私は思っていた。
無意識に、「名前を呼ぶ」というたったこれだけの行為が、相手に好意を印象づけてしまうと気がついているみたいで、自分の中で現在も将来も避けたいと思っている人間には、私は名前で呼び掛けることはしていなかった。逆に、継続したい関係の人間には、名前でハッキリと呼び掛けていた。
「名前」で呼び合うことが大事なことだというのは、不思議なもので、誰に教わったでもないのに生きている過程で何となく気がついている。そしてそれは、いつの間にか心の中で大きなウェイトを占めている。
今年の「新春TV放談2014」でも取り上げられたのだが、平成25年7月11日に放送された「あの日 わたしは」で、震災の日のある出来事を、女性は語った。
震災の日、松の木に捕まって必死に耐えていたお父さん(旦那)。津波が来て、お父さんは流されてしまった。流される中、お父さんが「ヒデコ」「ヒデコ」と私の名前を叫んだ。その時、思ったのは、「私の名前、知ってたんだ」。40年間、「おい」「おい」としか呼ばれて来なかった。こんな瞬間に、こんなことを思ってしまったことが、お父さんに申し訳ないやら、嬉しいやら・・・。
名前を呼ぶということについて、深く考えさせられる回だった。
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