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学校は子供に「苦手意識」を植え付ける

自己を表現するということに対して、苦手意識を持ったのは小学生になってからだった。幼稚園生の頃は、そういう意識はまったくなく、お絵かきの時間や工作の時間に本当に好きなものを奔放に表現できていたと思う。主に迷路と、爪に針が刺さるという絵ばかり描いていたが・・・・・・。

元々自分には才能がなかった、というだけのことなのかもしれないが、こじつけかもしれないが、学校教育の自由の無さが招いた結果かと思うことがある。英会話が分かり易いのだが、幼少期は耳で聞くだけで真似している為、非常にきれいな発音ができるのだが、学校教育で発音記号を日本語音で覚えたり片言の発音しかできない教師の後に復唱させられたりすることで、良い感覚が失われていくという現象だ。自由な発想が決められた発想に矯正(強制)されていく。これはよくよく考えると恐ろしい「洗脳」だ。

美術や工芸に苦手意識を持ってしまうのも、技法などが勉学であり、決められた枠の中で優劣を決められてしまうからだ。芸術家が成功するのは、自己は自己で貫けるだけの精神力があるからで、そうでなければ、劣等感だけを持って学校教育を終えてしまうといっても過言ではない。そもそも「劣」を決める必要が何故あるのか。

私は、学校の授業で「段ボールを使いましょう」や「絵の具で描きましょう」などと指示されたら、全然違う紙を使ってみたり絵の具にマジックを混ぜてみたりして反抗していたのだが、そもそもなぜ注意をされなきゃならんのか、という想いからのことだった。日本の教育は、こうでなければなりません、教育で、こういう方法やこういった可能性があるよ、という、視野を広げてあげる教育ではないのが、本当に悪いところだ。あれはダメ、これはダメ、の日本。日本のクリエーターがなかなか世界に飛び立てないのは、こういった決められた枠組みの中でしか褒められてこなかったからではないかと思う。新しいものが怖いというか、みんなと違うことをやって褒められているシーンを、あまり見たことが無い。新しいことをしようとする芽を潰されているようだ。

今の歳になって思うのは、より広い視野でより柔軟な思考で様々なことを縛られずに経験すればよかったということ。これからの子供たちには是非そうしてもらいたい。それには褒める社会が必要なのかもしれない。あれはダメだこれはダメだで、選択肢、可能性を成長と共にひとつずつ潰していく社会ではなく。

先日、”褒めて伸ばすのではなく、矢作流「小木のやりたいことはなるべくやらせてやりたいと思っているからな」で伸ばす”の記事の中で、私が塾講師だった頃に出会った男子中学生の受験について書いたが、大人が子供に可能性を示してあげない、ましてやその可能性を潰す、というのは、大変な罪なことだと改めて思わされる。これは、大人と子供という関係だけではないのかもしれないが。

(アシベズヘア/facebook

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