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「惡の華」を読む

押見修造著「惡の華」は、中学二年生の主人公・春日高男(かすがたかお)を中心に思春期特有の精神衝動を描いた青春物語である。おそらくこの作品に共感を得るのは学生時代にスクールカーストというヒエラルキーの中で下位層に位置していた人たちだろうと思われる。付け加えるとそのヒエラルキーをクソ共が勝手に作り出した虚構だと態度には表さないまでも見下していた人たちではないだろうか。

この作品は著者の実体験を基にしたものではないとされているが、著者が思春期だった頃の想いは色濃く表れているように感じられる。

この漫画を、今、思春期に苛まれているすべての少年少女、
かつて思春期に苛まれたすべてのかつての少年少女に捧げます。

惡の華・カバーそで

作品内で春日高男の取る行動はやや現実的ではないにしても、思春期には誰しもが持ちえる衝動で、例えば敢えて一番に登校し、気になる女子の机の中を探ってみたり、体操着などを触ってみるくらいは多少偏向した思春期の男子ならば一度は経験したものと思う。しかし、中学二年生という年齢でそれ以上を実行に移す者はなく、居るとすればそれは精神的に非常に幼く、羞恥衝動もまだ一人前に持てていない幼稚性を露わにするクラス内でも浮いた存在であっただろうと推測する。

春日高男の行動には同じ思春期を経た私からしても少し幼稚性を感じるところがある。ただそれは春日高男と行動を共にする仲村佐和(なかむらさわ)という女子が現実に存在しなかっただけで、もしも仲村佐和が当時自分の前に存在していれば自分もそれだけの闇に嵌っていく可能性はあったかもしれないと考えさせられる。また、仲村佐和の存在は当時の思春期の私にとってもある種の救いになったのではないかという期待も抱かせる。この春日高男の仲村佐和に対する一挙一動には嫉妬すら覚えてしまう。

――オレのいる場所はどこにも無い
――遅いよ 春日くん

惡の華・第3巻(64ページ)

それは当時の私が愛の最終形として「共依存」を求めていたからに他ならない。私は「個の価値を尊ぶ」ことを理想としていた為、お互いに補い合える関係こそが至高、と考えていたのだ。

私からすれば春日高男と共に奇行に走る仲村佐和には変態性を見出すことはできず、逆に無邪気で可愛いと思ってしまっている。本当に思春期の当時に私の目の前にこんな女子が居れば一発で惹かれただろう。私の思春期は個人の価値観に対して尊重の無い社会へ反発することが中心だったので、特に個を強く持てる付和雷同しない自立(孤立)した女子には例外なく憧れを抱いていた。孤立していればブスも愛しく見えたわけだ。

自分の持つ価値観から逸脱するものを受け入れられないのは日本の教育の悪害だと常々思う。和を大事にし、空気を読み、絆を育むことを日本教育では強要される。これはつまり、個を殺し、総に従えということとイコールだ。だからイジメが生まれ、差別が生まれる。個を生かそうとする者を集団で弾圧することが幼少期に学校教育で身に付けさせられてしまっているのだ。

これは人間の本分に反する行為だ。人間は良いようにプログラミングされたロボットではない。意思統一、個の統一など不可能だ。人間の本質とのズレが生じる為、社会に出ると総じてストレスまみれになる。仲村佐和は春日高男を心から受け入れる。この物語における「変態」という罵りは、紛れもなく「愛」だ。自分の変態性を受け入れてくれる、これほどの喜びは無い。

春日高男は家族にも親戚にも受け入れられない。思春期にはよくある描写だ。しかし、これはもしかしたら今の若い世代は共感を得ないかもしれない。親が友達と等しい関係になっていて、反抗期が無いと言われている現代の若者には、この物語はどのように映るのだろう。

――山の向こうは何があるかな?
――どこか遠くに・・・ずーっと・・・旅に出たいって思ってた・・・

惡の華・第3巻(85ページ)

私の地元にも山ではないが高台があり、その向こう側には何があるのか、小さい頃から憧れていた。それは未来に希望を持つような憧れであった。しかしいつしか、それは自分への逃避の対象に傾いていった。中学生の時、その高台の向こう側へ春日高男と仲村佐和のように自転車で行ってみたことがあった。何も変わらない同じような街の風景がそこにはあった。向こう側には何もない。それが思春期に得る最大の真理かもしれない。そして、それは大人になっても変わらない。向こう側には何もない。著者が言うように、どこかで自分で見つけないといけないものなのだろう。

中年になって、ハゲて、しわができて白髪になっても、自意識は思春期のまま、という人間は大勢います。始まりは否応なくやってきますが、終わりは向こうからやってきてくれません。自分で見つけないといけないからです。
惡の華・第3巻(172ページ)

自分だけの価値を見つけることに時間を掛けさせてくれない日本だが、誰よりも自分を面白いと信じて生きてきた人たちが成功している世の中だと私は思う。自分は他人とは違う、自分は自分、他人が何を言おうが、好きなものは好きなんだ、という信念を抱き続けられるかどうか。

作者の言葉と重なってしまうが、この作品は特に思春期の人たちに読んでもらいたい。思春期から抜け出せない大人たちにも。自分を殺して生きることの意味を考えてみてほしい。

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