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今の若い世代は合理的になって心が無くなった?

今の若い世代の人たちは、自分にとって有意義な24時間とする為に、様々な取捨選択を無意識のうちに行えるようになっている世代のように感じる。

歩きスマホや電車内でのスマホ利用はもちろん批判もあるが、移動時間を無意識のうちに情報収集という有意義なものに置き換えている。時間の捉え方に変化が起きていて、もちろんそれは依存性でもあるとは思うが、ただ時間が過ぎ去ることを許さないようになってきているのは良いことだと私は思っている。

先日、知人の40代の女性から聞いたのだが、ある独立した同年代の女性が若いアルバイトを雇ったのだという。そのアルバイト、8時間の仕事を7時間で済ませたからと、「1時間分は給料から引いておいてください」と言ってそそくさと帰ってしまったそうなのだ。

さて、この話、あなたはどう思うだろうか?

知人とその雇い主である女性は、有り得ない! 今の若い者は! 礼儀を知らん! と大変に盛り上がったそうなのだが、私は逆に、この若いアルバイトをとても高く評価して手元に欲しくなってしまった。

私の世代ではまだ少なかったが、このような若者は非常に増えたと思う。「礼儀を知らん」という観点から見れば、これは今の日本の教育の犠牲なので、このアルバイトを責めるのはお門違いだ。この内容で説教しても、絶対に響かない世代だ。何故なら、教師がそうだったからである。国から決められたカリキュラムだけを生徒へ向けて垂れ流し、それさえ消化してしまえば、それ以上の関わりを持たない、教師すらもが自分の時間が一番大事だったのだから。

日本の教育のカリキュラムに心の教育は含まれていない。教師という人間が生徒という人間に独自に教えることを前提としていた為、かつては聖職と呼ばれていたのだが、そんなものはもう過去の遺産だ。今の教育はビデオで教育しているのと何ら変わらない。必要ないと生徒が思えばシャットダウンできるし、もっと欲しても何も返ってこない。

ただこれは、とても合理的な人間を生む結果にはなったようだ。このアルバイトは、7時間でできる仕事をダラダラと8時間を掛けて行って、余分に1時間の賃金を得ることもできたわけだが、自分にとっての1時間が、他人に決められた賃金相当程度の価値しかないとは、思っていないということだ。自分にとって何が無駄で、何が大切なのか、完全に自分を中心に考えられる合理的な世代が出てきたということだ。

自己犠牲は時間の無駄使い。

これが自然と実践できる面白い世代だ。私はこれが正しい生き方だと思っている。ゴミの分別もそうだが(武田邦彦ではないが)、分別するという時間を犠牲にして、それによって何が得られているか、果たして考えてやっているのだろうか? 本当にゴミの分別に、意味はあるのだろうか? 意味がある! と、強い者たちが主張しているだけで、実は、その強い者たちの懐に金が転がり込むだけで、結局は、多くの弱い庶民は、時間だけを犠牲にさせられているということに、気づかず死んでいく。

人生における幸福は、自分の為に自分の時間を使うことだ。8時間の内容の仕事を請け負い、7時間で完了ができたのなら、残りの1時間を自分のものにする。自分の努力で得た貴重な1時間を、他人(強者=ここでは雇い主)にさらに捧げるのは、馬鹿げた頭の悪い話なわけだ。時給が1000円なら、お前の1時間は1000円の価値しかない、と強者がエゴで押し付けているだけであって、残りの1時間何かやりましょうか、とこのアルバイトが進言したとしても、それは「助け合い」でも何でもなく、僅か1000円の価値で強者に時間を食いものにされたに過ぎないのだ。もしかしたらこのアルバイトには、1時間を100万円に変えるような能力があったかもしれないのに。

そもそも断っておくが、心が無いのは、このアルバイトの方ではない。「助け合い」だと言って時間を捧げたとしても、その助け「合い」の部分に保証がない世の中だということだ。強者が弱者を平気で食い物にする社会を先に作った古い世代の者たちが、まず心を入れ替えてから、若い世代に説教を垂れるべきだ。心の無いことをしているのは先人だ。

私がこの若いアルバイトを高く評価するのは、強者に盲目的に自分を捧げるような愚かな精神を持ち合わせていないからだ。この雇い主が清い心で対話をすれば、それにはいずれ必ず応えるだろう。彼ら若い者たちは悪魔の世代じゃない。それをしてこなかった先人が最も悪なのだ。

(アシベズヘア/facebook

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