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『プロメア』の感想

先輩と友人の誘いで、映画『プロメア』を観た。友人は他のTRIGGER作品の焼き直しだ、といって止まなかったが、TRIGGER作品を一作も見ていない私にとっては、新鮮な楽しみがいっぱいあった。燃えている気持ちが冷めてしまう前に感想をしたためておく。

未鑑賞の人はほとんど読まれないと思うので、あらすじは公式ホームページに任せるとして、どんどん感想、解釈を述べていこうと思う。以下、盛大にネタバレをしていく。

観て、この映画が面白くないはずはない、と思った。これだけ時代の趨勢に配慮した上で、「神話」をなぞったらウケるに決まっている。それに色使いをはじめとして、視覚的にめちゃめちゃ気持ちがよかった。充実感のあるアニメーション映画でした。


愛の描写

まず、愛の描写から。

異性愛よりも、姉妹愛、同性愛に重きが置かれている。配慮というよりも、それを超えて、姉妹愛、同性愛こそがこの映画の肝であるといえるくらいだ。

ヒロインと言えそうな登場人物をあげるとしたら、たぶんアイナになるのだが、アイナは決してガロの恋人とはならない。むしろ、ガロの恋人に当てはまるのは、(中性的に描かれている)リオだ。

アイナとガロが二人きりになるシーンがある。ガロが氷上で転けそうになったアイナを抱えるシーンである。もはやお決まりで、ここでアイナはガロに見惚れるのだが、ガロはアイナではなく、彼女を掠めたその先にあるものを見ている。恋愛よりも仕事の人間なのだ。そして、このシーン以降、二人の間に恋愛描写は出てこない。ここでガロの視線の先にあった「あるもの」とは、のちにガロがリオと「結ばれる」場所であるのだが、このシーンではまだその施設の全貌は明らかにされない。

ストーリーが進んでいく。ガロとリオは合体してクレイと戦うが、その戦いの果てにリオはボロボロになってしまう。そのリオを復活させるのにガロが用いるのが彼の唇だ。ガロは、リオが敵の攻撃からガロを守るために与えてくれた炎を口に含み、口移しでリオにそれを返す。ここのシーンでは近くに座っていた観客(おそらく腐の方面の方だろう)が声をあげていた。それほどにアツいBLシーンでありました。

そして、ガロに相手にされなかったアイナはどうなるかと言うと、彼女はその姉エリスと結ばれることとなる。エリスは研究者として、アイナはバーニングレスキューの一員としてそれぞれ勤しんでおり、二人には接点がない。それもそのはずで、エリスの研究内容は共和国の機密に関わることだからだ。だが、エリスはうちに妹への愛を秘めており、妹のためならなんでもすると言いさえする。アイナは優秀な姉に引け目をおぼえているが、この構図は知っている気がする。そう『アナと雪の女王』だ。知的な姉と、やや落ち着きのない妹。思えば「アナ」と「アイナ」は名前が似ている(それは考えすぎだろうが)。「アナ雪」では、最後に妹の愛が石化した姉を溶かすのであった。

ガロはアイナを相手にせず、リオと「結ばれ」、相手にされなかったアイナは姉のエリスと結ばれる。このストーリーでは、異性愛が否定され、同性愛が勝つ。時代への確かなまなざしがある。今の時代に受ける条件だ。


神話

次に神話。ここでいう神話とは、人間が面白みを感じることができる物語の限界としての神話のことだ。

「プロメア」という名前からわかるように、この作品はギリシア神話に出てくる「プロメテウス」の物語を下敷きにしている。バーニッシュ(=炎を操る新人類)は、並行世界にある意思を持った存在(=プロメア)と繋がっていて、炎を操ることができる人種である。そしてそのプロメアの思いのまま、炎を燃やさずにはいられない人たちなのであるが、この炎こそプロメテウスがゼウスから盗んで人類に与えた「火」に他ならない。うまく扱えば人類を利するが、誤れば全てを灰燼に帰すのが「火」である。共和国司政官クレイはその「火」を濫用しようとした。そして危うくも地球全土を燃やし尽くしてしまうところだった。

最後にはその火をうまく燃やしきり、バーニッシュという炎を燃やさずにはいられない存在と、そうでない人間の境目がなくなる。それは「人間」の誕生であり、創造神話をなぞっていると言えるだろう。

デウス(ゼウス)と名のつく登場人物がいる。デウス・プロメス博士だ。彼に導きにしたがって、ガロとリオはプロメアを活用し、力を合わせてクレイと戦うことができるようになる。「火」の正しい用い方を知っていたのはデウス博士だけだった。

(描き損ねたが、もちろん、人類のうち一万人しか乗ることのできない宇宙船は、ノアの方舟である。)


フロイト的に

私はフロイト的にも鑑賞していた。

この映画の主な三つの勢力とは、バーニングレスキューマッドバーニッシュプロメポリス政府だ。

これらを、それぞれ自我エス超自我、と捉えることはできないだろうか。わかりやすいのでマッドバーニッシュから見るが、彼らは「燃やさなくては生きていけない」。フロイトはエスを「カオスであり、沸騰する興奮で満ちたボイラーのようなもの」と喩えている。地球のマグマと同調し、常に燃え上がろうとするマッドバーニッシュはたしかに、エスのように感じられる。

超自我たるプロメポリス政府は、自我とエスとを監視し、それらに規範や禁止を与え、それを守らない場合には罰を与える。超自我を体現するのは、自ら強大なバーニッシュでありながら、それを理性で抑え込もうとしていた司政官クレイだ。実際にマッドバーニッシュを迫害したし、ガロも彼に監禁された。

また、自我に目を写すと、フロイトは「自我はエスの一部だった」といっている。ここだけを読めば整合性が取れないが、続きにこうも書かれている。自我は「エスを保護するために、エスにおいて外界との関係を代表するという役割を引き受けた」。そして「エスが欲動の満足をひたすら欲求した場合には、エスは破滅を免れることはできない」とある。ガロはリオから話を聞く中で、マッドバーニッシュを保護する立場でクレイ司政官に訴えに出る。マッドバーニッシュがその力を解放してしまえば、地球が滅び、彼ら自身破滅してしまうが、ガロがリオと結託することで、すなわち自我が外界とエスとの橋渡しをすることで、マッドバーニッシュの崩壊という結末にはならずに済むのである。

自我(その代表としてのガロ)は、超自我とエスの狭間でバランスを取ろうともがくのである。

この作品に絶対悪と呼べる存在はいないが、それは人間の心的な装置は、三つの機能がバランスよく働かなければならないということとも対応していよう。取り除いてしまって良いような要素はどこにもないのである。

それぞれ一対一の完全な一致はあり得ないはずだが(100%一致してしまうようなものは存在意義がない)、これもひとつの解釈として読んでいただけたら幸いだ。


おしまい

この映画についアツくなってしまうのは、何かフツフツと滾る思いがあるのに、それが抑圧されてしまっている、という現実にどこかシンパシーを覚えてしまうためではないだろうか。映画の序幕、人口の大半が焼失することとなった「世界大炎上」のシーンが印象的だ。満員電車のストレスに限界が来たサラリーマン。DVの被害に遭った妊婦……。その怒りを爆発させたら人間は崩壊してしまうという警鐘? それとも、黙っている人を怒らせたら怖いぞという脅し? いずれにせよ、私たちにとってこれらは「日常的な」現象だ。

あらゆる表現はその社会との関係によって、また特に、大きな資本を必要とする映画であれば、社会の要請や期待を受けて作られるものだ。映画で描かれているような選民思想や理性偏重の風潮は決して人ごとではないはずだし、何がとは言えないがどこかキナ臭い、といった現実の不安がたしかにこの映画を必要としていた。エンターテインメントとして面白いことはもとより、自分の鏡として観ることができる映画、当分の間は面白さを失わない映画だと思います。

誘ってくれた先輩と友人に感謝です。ありがとう。


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