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事実として読んでくれてもいいし、創作として読んでくれてもいい、もしも後者の場合なら、比喩だと思ってくれてもいい

 下請けの下請けの下請けくらいのところでの作業だった。ここの人間たちに仲間意識はある、それもかなり強い。が、個々人に人格はない。お前も今日から仲間や、と言われたが、彼の名前は知らないし、当然ぼくの名前も知られていない。思い浮かんだのは猿の群れである。名前はないが、集団はある。ぼくは新入りの若猿であった。現場では、力と勢い、それがすべてであった。体力、筋力、持久力のある人間は重宝され、逆にない人間は「お前ちから無いなぁ。」罵倒とともに軽作業に向かわせられる。そして、威勢のいい20そこらの人間が、50を超えたおじさんにタメ口で指示を出す。これはこの世界の当然だ。ぼくたちは肉体しか求められていない。人の言うことが聞けること、そして、ものを持ち上げて運べること、これだけしか求められていないのだから。これだけが求められているのだから。下請けが三乗されれば、専門性もクソもなくて、ただ健康なからだがありさえすればいい、重いものが運べればいい。あまりにも皮肉な形で、ぼくはただ健康なからだがあればいい、という存在の承認を受けた。ただなにも考えず、運んでいればよかった。
 あらゆる環境において、人間には多様性がある。悪い人もいればいい人もいる。「仲間」の非難ばかりしている人がいた。でも他方で、慣れない作業に手間取っている「仲間」を気にかける人がいた。無言で乱雑でありながらも、疲れ果てた「仲間」の作業を代わってやる人がいた。彼により得意そうな仕事を割り当てようとした人がいた。結局、どこにいても変わらない。人の周りには必ず人間がいる。それから、人間自体も変わらない。個々の人が代わっても、人間は、変わらない。
 高そうなスーツを着たサラリーマンが冷ややかな眼差しをこちらに向けた。目が合った。刹那、快感が走った。自分の方が汗を流しているという快感か?体育の授業で走り終えたあとに、教室にいる友人を見上げるときの感覚に近いかもしれない。マゾヒズム的な快感というよりは、本当にこっちの"方が"しんどい思いをしているんだぞ、という優越感だろうか。どうして気持ちよかったのか、思い出してみても、不思議だ。
 経験をした。未知の経験をした。だが「いい経験になった」なんてことはない。ぼくたちの現実が一部、からだに縫い込まれたというだけのことだ。都会の泥を啜ってみても、味なんてものはない、死んでいた。終電間際のネオンにだって色はなかった。

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