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希望によって、人間がささえられるのではない(おそらく希望というものはこの地上には存在しないだろう)。

年末年始は毎年調子が悪いことが多い。風邪を引いたり、心のバランスを失ったりしている。12月のせわしい雰囲気に輪をかけるようにクリスマスと正月がやってきて、休まることがない。食事も「ハレ」のものが多くなって、胃ももたれがちだ。

今年はなんとか乗り切れた気がしている。少し風邪っぽいが、それでも大きくバランスを崩すということはなく、松の内のほっとした空気感になんとか寛ぐことができている。

新年は失語と沈黙の詩人、石原吉郎を読みながら迎えた。そしてそこへ言葉を失わせるような出来事が起こった。わたしは安易に言葉を続けることも、あるいは「失語した」と大仰に悲劇を演じることも避けたいと思う。わたしに語れることをただ粛々と語っていたい。

希望によって、人間がささえられるのではない(おそらく希望というものはこの地上には存在しないだろう)。希望を求めるその姿勢だけが、おそらく人間をささえているのだ。

石原吉郎「一九五九年から一九六二年までのノートから」

石原吉郎の言葉について語るとき、彼のシベリア抑留の経験を抜きにしては語ることができないが、それでも、彼のこの言葉には今日のわたしも励まされる思いがする。わたしは「希望」というもの、あるいは「希望」する態度を避けてきたようなところがある。それは、希望という言葉が権力者たちによって随分都合よく使われてきたということもあるし、わたし自身もこの言葉を支えるだけの身体を持ち得ていないように感じられるということもある。

希望。希望とは、「何かを」希望することだろうか。もちろん、そのような用法はある。だが、今語りたいのは絶望の淵にあって抱かれるような希望、特定の何かをではなく、漠然として対象をもたないような希望のことである。

希望という言葉を使うときに、期待という言葉との近さを思う。生きているということはすでに希望を抱いているということだ、と言えてしまうが、このときの希望は期待に意味が近い。希望とは何か。

希望とは、近づくことのできない何かではないか。だとしたらそんなものは「この地上には存在しない」ということになるのだろう。だが、この文章がそうであるように、「希望」というものに無関心であることはできない。わたしが頭でどう思おうが、この体は延命することを欲していて、この上ない自然さで呼吸が続いていく。腹が減る。トイレに行きたくなる。そのような「意志」は、「希望」と同義のような気がしてくる。力への意志。その足場としてのこのわたしという存在。

「それでも生きようとする」というこの体の不思議さを思うとき、わたしは励まされる思いがする。そのとき、このわたしとは誰か。「希望」そのものではないか。

希望とは、生きようとしている「このわたし」のことである。それぞれに生きようとする意志の発現のことである。だから、「希望を持って生きていきましょう」ということは同語反復的であって、違和感を伴う。そして反復される方の「希望」には生政治的な、独善的な響きを感じる。「希望を持たないものは死ね」ということが暗に示されているようだ。

希望を抱くことの両義性。希望を捨てることがそのひとにとっての希望であるかもしれない。期待しすぎるとその当のものが逃げていってしまう、というある種の信念がここでも顔を出す。希望を抱かないことは絶望を意味しない。その間には広い淵がひらけているのではないか。そして、その淵に佇むこと、安易に「希望」を求めず、「絶望」せず、この「間」でもがくこと。誰かのもがいている姿勢がたしかに人間をささえる。この人間とは、特定の個々人ではないのかもしれない。そうではなく、希望を求める姿勢は、「人間」という無限大と無限小の間に放り出されたわけのわからぬ存在を確かにささえるのだ。

以上は、希望を持つということについて述べた文である。誰かが希望を持つことを願う観点で述べられたものではない。わたしにできるのは、希望ではなく、希望を求める姿勢を見せることである。たしかに今まで易々と希望や祈りといった言葉を消費してきた身にとっては今は、失語せざるを得ない状況だろう。自分が使ってきた言葉が、しかるべきところに届くにはあまりに浅いということを思い知らされるからだ。そうだ、お前の祈りは甘かった。だがわたしたちは子どもではない。「人間」をささえる大人である。呻きつつ求めようではないか。その背中だけが唯一雄弁であるはずだ。

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