20210907

心があるというのはつくづく不思議な事態だ。どれほど丹精込めてしつらえた家であっても、配管の感覚や床材の気持ちはわかることがない。というより、人間たるぼくにとってはそれらは感覚も気持ちも持つことがないとしか思えない。この肉にだけ生じるのだ。感覚は。触れ合ってしまい、否が応でも見られてしまい、そこが熱くなったり痒くなったりする。どうしてだ、それは心があるからだ。この感じを感じる部分。ただの物質ではない証拠。どれほど酩酊のうちにあっても、たまに帰ってこれるところだ。ここに心がある。感じているだけでは足りないのだった。感じていることを感じることができているときにだけ、二乗できた、二度、乗っていることがわかったものにだけ、心は劈かれる。深い地層が掘り出されるようにして、そして地層を剥がしていくことが唯一可能になる地点で、重みを引き受ける。これは誰にも差し出すことができないのだった。誰からも貰い受けることができないのだった。肌が二つ必要なのではない。感じることが重なりあうことが必要なのだった。誰もが孤独のうちにいる。解消はできない。そのフェティシズムは諦めることだ。いたのだった、私は。


 

100円でも投げ銭をしていただけますと、大変励みになります。よろしければ応援よろしくお願いします。