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アイデンティティーを問うてみずむ

アイデンティティーとは、じぶんに与えるストーリー、すなわちじぶんという不確かさをわかりやすく説明するひとつの枠組みのことだとしたら、それを動植物や鉱物、あるいは星や何かしらの概念に仮託することで確固たるじぶん(という幻想)に近づけるのは確かだ。だが、その安住は閉ざされている。他の何かであれた可能性や、実際に他の何かであったという事実を押しつぶして打ち立てられた「わたし」。「わたし」は象徴の世界にしか生きることを許されない。世界に「わたし」は一人しか要らないという事実ゆえ、その幻想はまた大変脆いと言える。脆いからとそのアイデンティティーにこだわった結果、エゴティズムという形で自己が凝り固まる。鴉は一羽いればいいし、咲き乱れる曼珠沙華は現実でのみ美しい。二つの火星の衝突は悲惨だし、土星が木星の「外側を回る」必要もない。概念を奪い合うな。不自由な「わたし」の分かってもらいたさが傷傷しくなる。

何者かへの憧れは、何者でもないことへの恐怖の裏返しだ。本当は自分がだれでもないことを「わたし」は知っていた。

葦田不見の例。わたしは、葦ではない。もしわたしが葦であれば、葦の群生する水辺に吐き気を催すはずだ。じぶんは一人で十分だから、と。葦ではないが、不見ではある。いいや、不見であるとき、不見にいるときにだけ、わたしは不見の「わたし」である。「見ない」行為にわたしがいる。このたゆたう現実を相手取り「続ける」限り、その都度わたしはわたしである。あるものを見るとき、わたしはいない。わたしはもっと不定形で、自由なものだ。また、不見にいることはわたしだけの特権ではない。だれにも開かれている。だから、わたしではないものがわたしであることもできるし、わたしがわたしでないものであることもできる。アイデンティティーは、行為のうちにしかない。そしてそれが行為である以上、常に不安定なものだ。安住はあり得ない。何も失われないし、何も得ない。わたしたちは一陣の風。いつもただ、それだけだった。

葦は風に吹かれるだけである。


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