愛の端緒は、あまりにも小さなところに

ヴィパッサナー瞑想の感想、第二弾です。

(人類愛はいつも極めて具体的な部分から始まる。)


 サーバーは男女それぞれ4人ずつくらいはいるのだが(コース期間中でもときに増減する)、うちのひとりが他のサーバーたちに林檎を剥いてくれた。その手つきがあまりにも美しくて、思わず感激してしまった。その話をします。
 林檎をまず縦半分に切って、次にそれぞれの半球を三等分する。すると六つの部分が出来上がる。そして今度はそれぞれの芯の部分だけをなるべく実を残すような形でくりぬいていき、皿に並べる。言葉にするとこれだけの作業なのだが(新鮮な林檎だし、食べられる部分はなるべく食べる方針なので、皮は剥きません)、わたしはその動きに見とれていた。
 剥いていたのはわたしより20歳くらい年上で、普段は主婦をしておられる方だ。きっと人生で何十個、もしかしたら何百個という林檎を剥いて並べてしてきたのだと思うが、わたしは彼女の慣れた手捌きをジッ……と見ていた。切られていく林檎ではなく、それを掌で転がすときの指の開閉や、包丁の向きを変えるときの手首のひねり具合を観察していた。動きに無駄がなく、見る見る林檎はその姿を変えていく。鮮やかだ。この人は林檎を切るという歴史をその手に、指に手首に、骨に、筋肉に染み込ませているのだと思った。
 でもわたしが見たのはその人個人の歴史だけではない。目の前で繰り広げられていたのは長いこと果実を切り分けてきた人間の歴史でもあった。太古の昔、人間は石を薄片へと加工し、その石斧で果実を裂いていた。そのときから綿々と続く、ただ果実を食べやすい大きさに切り分けるという作業。生まれ消えていった数多くの人間がしたのであろう、その一連の手の動き。そういったものをわたしは見ていた。思わず見惚れてしまった。
 そして、そう思うか思わないかのうちに、「この人」へのいとおしみが滔々と溢れ出てきた。この瞬間だけ、わたしは人類を愛していた。何にも変えがたいひとりの存在として、彼女が確とそこにいた。
 この林檎を切る、というひどく具体的なものへの慈しみから、わたしは人間への愛を一瞬ではあるが感じ取っていた。


(人類愛はいつも極めて具体的な部分から始まる。)

 だが逆は起こらない。人類愛ゆえに、ひとりの人を大切にするということ、それは美談かもしれないが、せいぜい規範的な理想に過ぎない。人類愛ゆえ個々人を愛することができている人は、その都度その都度、それぞれの人たちを慈しんでいるというだけだ。
 人類愛を謳う多くの言説は偽りだと思う。でも逆に、人類愛なんてあり得ないとリアリストぶってみるのも卑怯だ。なにかを大切にするということを知らずに育った人間はいない、誰かの愛なしにはなにものも存在しえないからだ(愛ということばがややこしければ、「関心」を代入してくれたらいい)。
 そして、具体的なものから人類愛を感じるには、その具体的なものが「奇形」であればあるほどいい。正確に言うなら、より相手の「奇形」を、異形っぽさを感じられたらいい。愛とは違いを違いのままに喜ぶことだ。その差異を埋めることではなく、違いゆえに知り得ない世界の存在を確信することだ。ああ、世界はなんて豊かなのか、わたしの知らない世界が目の前のこの人間を通じて広がっている……。
 人間よ、もっと奇形たれ。異形たれ。異質なものこそ愛に近いところにいる。

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