映画『天気の子』感想

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「セカイ系」と呼ばれるニッチなジャンルの代表的作家でありながら、2016年『君の名は。』でマイナーメジャーから一気に大メジャーの地位に躍り出た感のある新海誠。
 その新作『天気の子』を観に行くにあたって、ひとつの仮説をたててみました。

 “新海誠は、「正しさ」と「美しさ」が対立したとき、後者を選ぶ作家である。”

 もちろん芸術家なら少なからずその傾向はあるのだけれど、作家ごとにグラデーションが存在し、両者のせめぎ合いに個性は現れる。
 新海の場合は、より迷いなく後者を取れる、というのが自分の抱いている印象でした。
 完全に「正しさ」に振れた作家というと、これはちょっと思い当たらない。むしろ哲学者の類でしょう。
「徹底的に正しさの側に立つ」主人公ならわかります。最近の作品では『藁の盾』なんかがそうですね。『まどマギ』の鹿目まどかもかな?。
 あとは最近のディズニー作品も、かなり「正しさ」を突き詰めていく傾向があり、『ズートピア』なんかはかなり究極に近いでしょう。
 もっとも、ディズニーの正しさとは主に「政治的な」それであり、普遍的かというと疑問符がつきます。

 いちおう、私の新海履歴を記しておくと、劇場で観はじめたのが『言の葉の庭』以降。それ以前には『ほしのこえ』と『秒速5センチメートル』のコミカライズ版は読んでました。『星を追う子ども』は完全に未見。そんなところでしょう。

 予告

 本題に入る前に、この夏公開されたアニメ映画、もうひとつの注目作『海獣の子供』との絡みを。
『天気の子』とはほぼ同時期に公開され、どちらも最高レベルの映像が期待できる作品(実際、期待通りだった)、さらには「海」と「天気」と微妙な違いはあるものの、「水」という共通項を持っていたので、これは「水の表現」対決だな、と勝手に盛り上がってました。
 結論から言えば、どちらも各々にとっての最適解であって、比べるようなものではない、というところに落ち着いたのですが(まあ、頭おかしいのはどちらかといったら『海獣』です)。

 さて、「正しさ」と「美しさ」の対立ですね。
 後者を取るとはどういうことか。要は井上陽水です。
「都会には自殺する若者が増えている(中略)だけども問題は今日の雨 傘がない」ですね。「行かなくちゃ 君に遭いに行かなくちゃ」ってやつです。 
 先に、芸術家なら少なからずその傾向はある、と言いましたが、そもそも「セカイ系」に括られる作品群って、だいたいがそうなんですよね。

“世界の命運よりも、一人の女の子を優先する”。
 あるいは、結論としてそこまでいかなくとも、“個人の問題が世界の問題と等価である”。

 おおよそそんなところが「セカイ系」の定義であり、批判されるポイントでもあります。
 なんで個人的な問題がそこまで飛躍するのかということが、一般の人にはあまりピンとこない。
 また、わざわざ「セカイ」とカタカナで表記されていることからもわかるとおり、「セカイ系」の主人公が見ている「セカイ」は本当の世界とイコールではない。
 それは経験や知識の不足からくる狭い世界観の産物であり、つまるところ「幼稚」であると見られてきました。
 このあたりの議論については私なぞよりもっと詳しい研究者がいくらでもいるのでそちらに譲りますが、そうした評価に耐えられず、「セカイ系」の隆盛は長くは続かなかったというのが私の認識です。

 しかし、『天気の子』を観るにあたって、また観た後にあれこれ考えた結果、そうした「セカイ系」への評価は果たして正当だったのかという疑問がわいてきました。
「セカイ系」の幼稚さってそもそも何? と考えた場合、ありがちなのが「肥大した自我」とか「狭い世界観ゆえの全能感」だと思うのですが、それって本当?
 新海誠の過去作を見ても、主人公ってだいたい無力じゃないですか。
 私は、そもそも「セカイ系」とは「世界の途方もなさ」や「わけのわからなさ」から始まってると思うんですよね。
 それは、ざっくり言ってしまえば「大きな物語」の消失が原因です。
 宗教、イデオロギー、国家――なんでもいいですけど、これらは他者と共有できる世界観であり、世界を認識するための「物差し」です。
 これらを取り払い、たった独りで世界と対峙するのはとてつもなく不安です。
 こうした世界の「途方もなさ」「わけのわからなさ」に立ちすくみ、それでもなお、「僕は“これ”を美しいと思う」「この美しいものだけは信じられる」というのが、「セカイ系」の言ってきたことなんじゃないかと思うわけです。
 だから、彼らにとっての「セカイ」が狭いのは当然なんです。そもそも知らないし、知ることもできないんですから。

 そう、“知ることも”できない。
 世界の全貌は、誰にもわからない。
 いや、わかってる、俺は知ってるという人はたくさんいるけども、それは彼らの物差しに当てはめた場合でしかありません。

 で、その物差しって錆びついてません?
 若い人たちは、いまさらそんなもの使う気になれないと思いますけど?
 それでもなお「大人になれ」とか言いますけど、信じてもいないものを信じているフリをするのが大人になるってことなんですか?

 彼らがなにを信じようと、それは他の人間には関係ありません。
 もし、信じるものが見つからなかったら?
 たぶん、都会で自殺するんじゃないですかね。うわ、また『傘がない』に繋がっちゃったよ。1972年の曲なのにね。
 これはわりと冗談ではなく、例えば岩井俊二『ヴァンパイア』では、自殺者が最後に残したメッセージに「私にとっては、世界は最初からわけがわからなかった」とあるんですよね。
 自作の話になりますけど、『mgmg!』で影の領域に踏み込んでいったのも、世界から捨てられた子供たちでした。
 そうした想いを抱えながら生きていくのは本当につらい。
「大きな物語」の消失の後、新たな物語を提示できなかったのは大人の責任――と言うつもりはありません。
 それこそ世界規模の大きな流れを止めることなんて、誰にできたかと思いますから。

 ぜんぜん『天気の子』の話をしてない気もしますが、作品を観て感じたこと思ったことを語るのも感想ですよね?
 いや、いちおう、ここまでの話の結論として、新海監督が「俺は美しいと思うモンはこれじゃああああ!」という想いを叩きつけてくれたので、私は感動しました。監督本人が「賛否両論あるだろう」と言った、あのラストに。
 本作の肯定的意見として多かった「セカイ系の新たなステージ」に立っているかはまだわかりませんが。
 ちなみに、個人的には割と真剣に「逢いたくない災害」の上位に「水害」がくるんですけどね……それはそれ。

 あ、繰り返しになりますけど、「セカイ系」を巡る議論についてはあまり詳しくないので、そんなの周回遅れだとか、その認識は間違ってるよ、という点があればご指摘くださるとありがたいです。

                             ★★★★☆


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