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雑誌モノノメ2号(乙武プロジェクトの)記事から考えたこと

宇野常寛氏が主宰する雑誌「モノノメ」の2号。その中に素晴らしい記事があった。その記事は乙武洋匡さんが義足をつけて走るプロジェクト、いわゆるOTOTAKE PROJECTについての記事だ。ソニーコンピューターサイエンス研究所(CSL)の主導で2018年〜2022年まで行われたこのプロジェクトは、メディアで度々取り上げられている。ただ、今回僕が読んで色々考えさせられたその記事は、プロジェクトを伝えるニュースとしてはちょっと変わった切り口だった。プロジェクトの結果そのものよりも過程で得られた成果にスポット当て、関わったメンバーがどのような考えで取り組んでいたのか、またその考えがどのように進化したのかがわかる内容だった。


記事中で僕が最も印象的だったエピソードが、乙武さんが義足ではなく義手をつけた時の話だ。その義手は、腕のような形ではなく棒のようなもので、(※下記本の表紙でつけているのがぼうのような義手)乙武さんが義足をつけて歩行する際のバランスを取る為のものだった。

以下が記事中の乙武さんの言葉だ。

義手を付けると、ただ棒状のものが数十センチ伸びただけで、床を叩いたりカチカチと拍手ができて面白かった。(中略)でもしばらくして、自分はできていない人生だったと痛感したんです。(乙武 洋匡 )
モノノメ2号 記事「思想としての義肢」より引用 

乙武さんはその義手をつけたことによって副産物的に、カチカチと拍手をしたり床をとんとん叩ける様になった。そこで乙武さんに生まれた感情は、なんと負の感情だったのだ。僕は、乙武さんは自己肯定感の強い人間だと思っている。その乙武さんでさえこうなってしまうのかというショックを受けた。自己肯定感が強い乙武さんであれば、他人と比べて出来ない事を落ち込むことなどないと勝手に思い込んでいたからだ。しかしそんなことはなかった。だからこのような負の感情というのは、万人に芽生える感情なのだろうと思った。例えば、ギターを弾かない人の世界には、ギターを弾ける人とギターを弾かない人の2種類しかいない。しかし、自分がギターを覚えた途端、ギターを弾かない人の他に、ギターが上手い人とギターが下手な人(自分)が生まれる。 つまり世界が広がれば広がるほど、自分に足りないものを突きつけられる。この負の感情からは人間は逃れられないのだろうか?この記事を読んで僕が一番考えたのがこの問題だった。この問題をどのように解決したら良いのだろうか?乙武さんの出した答えが記事中ある。

自分の中で人生の機会損失みたいなものが大波のように襲ってきて、負の感情に飲み込まれそうになって、あわててパンドラの箱にしまって鍵をかけたんですね。(乙武 洋匡 )
モノノメ2号 記事「思想としての義肢」より引用 

コレは単純だが有効な手段である。乙武さんは、負の感情に飲み込まれないように自制したのだ。さすが精神力が強い乙武さんと言えるかもしれない。僕が同じ立場になったら、負の感情に飲み込まれたまま立ち尽くすかもしれない。だからこれは個人での解決よりも社会的解決を考えるべき課題でもあると考える。そして社会での解決方はなんだろうか?1つのヒントが記事中にあった。このプロジェクトを支援するJST CREST xDiversityの代表 落合陽一氏の言葉だ。

"最近、身体のダイバーシティーをテーマにしたファッションショーを手がけて、(中略)低身長の小人症の人の動きが「ずるい」と思うくらいに佇まいがよかった。多様な身体への印象も含めて、異なる価値基軸をテックデザインの世界に還流していくことも、我々の使命の一つかなと考えています。"(落合陽一氏)
モノノメ2号 記事「思想としての義肢」より引用 

落合氏の言葉そのままだが、多様な身体への印象の更新が社会全体で取り組むべき課題なのかもしれない。そして僕はこの更新がここ何十年も更新されていないどころか退却している気がしている。その理由は、落合氏の言葉を読んだ時に頭に思い浮かんだ、過去にこの取組を行った人物がいたからだ。寺山修司である。寺山修司は「見世物の復権」を唱え、自身の作品に俳優として小人症の人や100キロを超える大女を登場させている。ここで寺山修司論を語ることは割愛するが、没後39年経った現在の状況は良くなるどころか悪くなっているという気がしてならない。だから重要なのは、多様な身体が表現するものを社会が共有することだと考える。そして更に、ここからは私見なのだが「みんなで同じことをしたり、同じものを経験し」、それを多様な身体が表現する。その表現をみんなで見て楽しむ。この循環が必要なのではないかと考えている。

なぜそんな私見を考えたか?それはこの記事を読んでから、記事のことが頭から離れず過ごしていたある日のことだった。僕は趣味のスナップ撮影に出かけた。ファインダーを覗く。画角気に入らずレンズを変えた。その時にふと考えた。レンズが違う=視点が違う。同じものを同じ場所から見ているのに、レンズによって全く違ったものに見える面白さがある。例えばコチラの写真は、全く同じ場所から同じものを違うレンズで撮影したものだ。

18mmのレンズ


135mmのレンズ


こんなに違いがある。因みに、カメラに詳しくない方にもわかりやすいように、僕のカメラに付けられるレンズはどんだけあるのかを図にしたものがコチラだ。

Xマウントレンズ ロードマップ | 富士フイルム Xシリーズ

同じ焦点距離(同じ画角)のものもあるのでそれを差し引いたとしても、同じものを同じ場所から撮影しても実にこれだけ違う絵が撮れるということだ。そして、同じものを同じ場所から撮影しているにもかかわらず、レンズによって全く違った画が写る面白さが、人にも当てはまるのでは?と考えたことがきっかけだった。

例えば乙武さんは、電動車椅子で世界中どこでも移動していたため、もともとは義足で歩きたいと思っていなかったそうだ。高速で移動できれば何でも良いという考えだ。(※1)このような考えは、乙武さんからしか出ないアイデアだろう。自分の体を早く移動するという万人共通の課題の答えが、走る以外になる面白さ。つまり、一つのものを別の角度から見るパラダイムシフトではなく、同じものを見ても出てくる表現が違うというレンズ的な面白さ。これがが重要なのではないだろうかと考える。

そのためには問題がある。有名な乙武さんだからこそ、彼の考えや表現を我々は楽しむことができる機会がたくさんある。だが普通の障害を持つ人の表現は、なかなか接する機会がない。例えば僕が小学生だった80年代頃は、同じ教室に障害のある子も一緒に授業を受けていた。しかし現在僕の子供が通う小学校では学級が違う特別クラスを設けている。色々な意見があるとは思うのだが、一緒に居ないと同じものを同じ位置から見れないのでは?という疑問を僕はもってしまう。その他、今の日本の社会では、障害のある人と混じり合う場所があまりにも少ないのではないかと考える。重要なのは一緒に過ごすこと。同じ場所から同じものを見た時に、いかに違うものを表現するのかを肌で感じることなのではないだろうか?そんなことを考えた記事だった。

<追記>
雑誌「モノノメ2」に興味を持った方は、下記より購入可能です。

参考
※1
乙武洋匡さんが「義足で歩く」ことを選んだ意味。テクノロジーで障がい者や高齢者の暮らしはどう変わる? | スーモジャーナル 
https://suumo.jp/journal/2020/03/02/170781/


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