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乗らなくても、オートバイを楽しめるのか?

2012年5月5日のこどもの日。僕はオートバイで筑波サーキットを走行中に転倒し、左手首骨折、右足の甲と左足の甲にヒビが入って1ヶ月入院した。左手首が一番酷く、骨を固定するためのボルトを2本入れる手術、また半年後にボルトを摘出する手術、計2度手術をする羽目になった。当時僕は40歳。その時ちょうど結婚を前提として付き合っていた彼女がいた。彼女は、毎日看病に来てくれて、身の回りの世話をしてくれた。大変心配をかけて申し訳なかったし、とても感謝しているし、その年の12月に結婚を決めた一因にもなった。しかしこの事故のせいで、結婚を申し込んだ際にオートバイ禁止令が出てしまった。僕は、またオートバイに乗りたくなる気がしていたが、結婚もしたかったので、禁止令を簡単に受け入れてしまった。事故から2年位経った頃、案の定オートバイに乗りたくなった。痛い目に会ったし、妻との約束もある。なのにまた激しく乗りたい衝動に駆られた。今から考えるとそれは、独身の気楽な生活が長すぎて結婚生活が妙に窮屈に感じることや、40才を過ぎて子育てをすることが体力的にかなり負担になっていたことなど、晩婚の弊害によるストレスが過大だったからかもしれない。

バイクに乗りたい。もちろん禁止令があるので乗れない。でも乗りたい。そんな悶々とした日々が続いていたそんなある日、僕は衝撃的なyoutube動画に出会う。(https://youtu.be/LDftIDIbXCw)これは、プロスケーター森田貴宏さんのインタビュー動画だ。そこで森田さんは、オーリーは必要ないと言っていた。オーリーというのはスケボーの技術の一つで、ジャンプしながら、スケートボード板の一番後ろの部分を蹴って弾き、スケボーと一緒にピョンと飛ぶ技術のことだ。この技術は、スケボーをやったらまず最初に身につける技術の一つで、誰もが練習する。スケボー初心者はオーリーが出来ると一人前、という技術だ。そのオーリーが出来なくても、スケボーは楽しめる。というのがこの動画の趣旨だ。そして更にこんな事を言っていた。”オーリーはできなくちゃいけない。ていう人がもしいるんだったら、俺はまったく正反対のことを言ってあげたい。オーリーなんてしなくていいって。それよりも、乗ってくれりゃいい。もしくは、乗らなくても、持ってるだけでもいい。究極言うとね。スケートボードのフォルムを見て、「あーかっこいいな」とか、おもちゃとして見るだけでもいいよって。それを好きだと思ってくれれば。” 特にこの後半部分、”究極言うとね。スケートボードのフォルムを見て、「あーかっこいいな」とか、おもちゃとして見るだけでもいいよって。”に痺れた。ありふれた表現だが、雷に打たれたような衝撃を受けた。

そうだ!オートバイだって、乗らなくたってイイんじゃないか?ただ単に所有し、見てるだけでも楽しいんじゃないか?オートバイは、アイテム的に格好イイ。だってそうだろう、オートバイを主人公のイメージアイテムにしている作品は多い。僕は現在48歳なのでちょっと古いかもなのだが、「仮面ライダー」、「電刃ザボーガー」、「湘南爆走族」、「バリバリ伝説」、「イージーライダー」、「マッドマックス」、「AKIRA」など、どれもオートバイ無しでは語れない作品だ。そうだ、オートバイはオートバイというだけで生まれながらにして格好イイ。見てるだけでも楽しいんだ。そう思ったら、居ても立っても居られなくなり、妻の説得に乗り出した。もちろん乗らない事を条件にだ。当然だが妻の反応は冷ややかだった。乗らないのに買うというは、意味が分からない。乗るから買うのではないか?それは許さない。乗らない約束なのだから、買う必要は無い。そんな至極もっともな応答が返ってきた。そんな反応がくることは百も承知。だが引き下がれない。ただこちらの言い分は、「乗らないんだから、眺めるだけなんだから、買っても良いだろう。」の一点張りだ。正直説得力に欠ける。説得力にはかけるが、言い続けるしか無い。そんな不毛なやり取りが1ヶ月ほど続いたが説得出来ない。そこで僕は強硬手段に出た。とりあえず買ってしまった。買ってしまったんだから、バイク屋に置いてくわけにはいかないだろう。家に持ってくるしか無いじゃないか?でも絶対に乗らないんだと。ここまでくると妻も根負けしたのか、乗らないことを条件に、マンションの駐車場にあるバイクをただ眺めるだけの権利を勝ちとった。

その後2年間、オートバイをただ眺めるだけの日々が続く、しかしやっぱり乗りたくなる。それも見ていると日に日に乗りたい気持ちが強くなった。結果今は、1ヶ月に30分だけという約束で、本当に僅かなのだけれど乗って楽しんでいる。結局乗ってるんじゃないか、と非難しないで欲しい。また、そこは重要じゃない。僕が伝えたいのは、乗らなかった2年間、より深くオートバイを思い。楽しめたという事実だ。前述の、フォルムの格好良さを眺めるという楽しみはもちろんあったのだが、2年間という長い期間眺めるだけなのに、全く飽きなかった。なぜなら、フォルムを楽しむ以外の気持ちが芽生えたのだ。なんと言うか、僕はいつも祈っていた。オートバイを前にして、仏像を前にしたお坊さんの様に。何を祈っていたのか?オートバイという概念に、オートバイという思想に、祈りを捧げていた。言わば、オートバイ教に入信していた。僕の考えるオートバイ教の概念。その柱になる3つの教義がある。

オートバイ教の教義1つ目は「不完全性」。走っていなければ倒れてしまうという。オートバイ自身が生まれながらに持っていて、尚且逃れられないその不完全性は、完全な人など居ないという人間の本質と重なる。それは自分に対しては、傲慢な自尊心を戒める道具になり、他者に対しては、優しさが沸き起こる源泉になる。

2つ目は、「孤独」。基本的に1人乗りの乗り物であるオートバイは、孤独な乗り物である。自分のように孤独な時間が好きな人には、格別な乗り物だ。ありきたりの表現だが、仕事や家庭の日常の煩わしい事を全て忘れられる時間が持てる。本来、人間は孤独な存在だ。人は他者と完全に共感することは出来ない。オートバイを見ていると、一人でしか乗れないその存在が、孤独を否定せず孤独を礼賛している様な気がするのだ。

3つ目は、「危険であること」。危険が楽しいという意味ではなく、危険すなわちリスクを自分がコントロールする喜び。危険な道具を自分の知恵、技術、そしてなにより心でマネージメントするという鍛錬の喜びがある。人間は、科学技術の発達により、自分の手には負えない力を手にしてしまった。だから人間には、道具(武器)を扱う自制心が必要だ。オートバイだって車だって、使い方を間違えれば、人を殺めることだって出来るのだ。また、言葉だって時には武器になる。人間は絶えず、自制心が求められるのだ。

この3つの素晴らしい教義を日々胸に抱きながら生活することに誓いを立て、それを祈っていた。こんな思いがあったからこそ、僕は2年間を楽しく、今も乗る時間は少なくても楽しんでいる。逆に乗れない時期が、もっとオートバイを好きになる切っ掛けになった。僕にとってオートバイは宗教だ。だから乗らなくたって好きだし。楽しい。でも乗ったほうがもっと楽しい。

#PLANETSSchool

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