『曇天』

プロローグ

「ねぇ、私たちって付き合ってるんだよね?」

 五年間続いた僕たちの関係は終わりを告げた。もっとも、最後の半年はおまけみたいなもので、もうずっと前から関係が破綻していることも気づいていたのだけれど。

 こんなものだろうな、と思った。あれだけ好きだった彼女なのに、そうとしか思わなかった自分を冷めた目で感じていた。

 会社からの帰り道、よくわからないままある電車に乗った。東京駅のコンコースで見上げた掲示板には、普段は意識したことのない電車の案内があった。

 こんなことをしたところで何かが変わるとは思っていなかった。でも僕は何か変わってほしかったのだろう。だからその電車に乗ったのだろう、と、今では思う。


二二時〇〇分 東京駅発 サンライズ出雲


 くたびれたスーツにお似合いのくたびれた僕。皺になることなどおかまいなしに、電気も付けないまま、僕は個室B寝台のベッドに倒れこんだ。

 旅に出れば何かが変わるかもしれないとはなんてガキみたいな発想なのだろう。でも、それに期待している自分が何よりも滑稽だ。それを笑う元気など無いのだけれど。

 毎日へとへとで家に帰り、休日も上客を回る。それでも、なんとかやっていたはずだった。でも、そう思っていたのは自分だけのようだった。今思えばギリギリのところだったのだろう。徐々に眠れなくなって、食欲がなくなって。それでも大丈夫なんだと、そう思っていた。大丈夫なはずだった。

 そして彼女からの別れの電話で、僕はあっけなく折れた。彼女のことは今更別にどうこう思わなかったけど、そんな些細なことで張りつめていた線はプツンと切れた。

 東京駅のコンコースで何時間座っていただろうか。何かしないといけないと思いながら何もできなかった。電車に乗って四十五分かけて家に帰るという、それだけのことができなかった。

 家に帰ったところで。そう思った。

 毎週末に訪問する、上客のアポイントメントが三つ。動き出す窓の向こうビル群を見て、僕は全部忘れてしまったことにして。



 夢を見ていた、と、思う。「思う」というのは、視覚に訴えるものがなく、触覚と温覚だけがそれを感じていたから。

 暗闇の中、体を包むぬくもりだけを感じていた。久しく感じていなかった安心がそこにはあった。僕は、それが、もう感じることのできない儚いものだと知っていた。

 眠りから覚醒した自覚なく、まどろみを味わいながら窓の外を眺めていた。

 電車が止まっている。寝台列車とは夜を徹して走るものだと思っていたが、そういうものではないのだろうか。

 車窓には夜のビル街が映る。今の時間の静けさや眼前に広がるビルの高さから言って、名古屋か大阪あたりだろうか。もっとも、そのどちらの街にもこれといった思い入れは無くて、ぼんやりと昼とは違う雰囲気のビル街を見つめていた。とはいえ明かりがついているビルも無くは無く、そこからは人の働きぶりを感じることができる。

 ふと、今までのことが頭をよぎった。目の前の明かり一つ一つにサラリーマンの生活を感じるように、自分も午前様くらいは珍しくはなかった。そして、仕事の多忙さにかまけて友人とは疎遠になった。家族はいない。唯一の肉親であった母も、数年前に他界している。

 考えのまとまらない頭で先ほどの夢を思い出していた。両腕から、背中から、全身を包む暖かさは、僕が幼少期に感じていたものだろうか。あれはいつの、いや、誰の。

 そこまで考えたところで、頭の中のもやが取れていくように脳が覚醒してきたのがわかった。軽い深呼吸をした後のようにフーッと大きなため息が一つ、虚空に吐き出される。

「腹減った……のか?」

 自分の体のことがよくわからない。脳はある程度覚醒しているはずなのに、鈍色のビー玉のように、意識は重く、曇っている。

 時計はどこへやったか、寝る前に外してしまったかな、と思いながら、スラックスのポケットに手を突っ込む。街の薄明りだけが唯一の光源となっていたB寝台に、色鮮やかなスマートフォンの液晶が光る。昔撮った彼女とのツーショット待受が僕を出迎えた。

 二年前、付き合って何年かの記念日に、鎌倉へ旅行に行ったときの写真だ。

 そうそう、ちょうど今頃の時期で……。

「記念日って、それ、昨日か……」

 思わず二度目になる大きなため息。スマートフォンを開いた本来の目的であった時間の確認も忘れて、ベッドに彼女との思い出を放り投げた。

 一人、また一人と、僕のもとを去っていった。考えるまでもなく、そうなった理由も原因も、自明の理なのだが。

 僕には仕事しか残っていなかった。仕事だけが自分の生活だった。そして、仕事にもフラれつつあった。

 つまり僕には何も残っていなかった。



 一夜が明けた。曇天模様の下、のどかな湖畔をサンライズ出雲は行く。

 眼前に広がる大きな湖は僕に、見知らぬ地にいるのだという思いを強く抱かせる。それと同時に、生まれ育った漁村への郷愁を感じていた。

 北陸の小さな村で、幸せに暮らしていた、と思う。当時の記憶があることは当時の感情を想起できることと同義ではない。およそ四年前の母の死以来、僕は故郷の地を踏んでいない。母方の親戚に手ひどく罵られ、母が眠っている場所も知らないとなると、いよいよもって生まれ故郷に帰ることは無いと思っていた。あの苦い一件以来、故郷での思い出は、すべてが無味乾燥なものに変わっていた。

 しかし昨晩あんな夢を見たからだろうか、物心つく前の、遠き、幼き日に感じたぬくもりのせいで、あの村とあの村で過ごした日々に対する特別な感情が、僕の中には蘇りつつあった。

「次は終点、出雲市、出雲市」

 減速しつつあるサンライズの車窓から、出雲の街を見下ろす。

 何も考えずにここまで来てしまった、と思う。出雲という街に興味はかけらもない。もともと、自分は自発的に旅行をする人間ではなかった。彼女や友人と旅行したことが無いでは無いが、一人旅などしたことはないし。だからつまるところ、こういったところに来てもあまり楽しみ方がわからない。

「どうしようか」

 一人ごちる。終点の出雲市まで切符を買ったものだからと出雲まで来てしまったのだが、どうせ行くなら県庁所在地である松江までにしたほうが良かったのではないか。そこまで考えて、どうせどこへ行っても同じだと、僕は考えるのをやめた。

 改札を出る。

 目の前の電車に乗れば何か変わるかもしれないという馬鹿みたいな思い付きだけでここまで来た僕は、出雲市駅の改札前で立ち尽くしてしまった。

 ふと、今日と明日にアポイントメントの入っていた上客のことを思い出し、急ぎキャンセルの電話を入れる。本人不在のため、お手伝いさんに伝えることしかできなかった先も中にはあった。別に怖い客ではないのだが、こちらから上客のアポをキャンセルしたことなど、今までの会社員人生で一度も無い。次回訪問時の反応が少し怖いのだけれど、もうそれは仕方がないことだった。

 いや、上客へのフォローをとは言うが、そもそも自分が行く次回の訪問などあるのだろうか。そんなことを思いながら通話終了の画面を見て、僕はまた一つため息をついた。



 やるべきことはすべてやった。そしてそこから、また動けなくなった。およそ十二時間前の僕を再現するように、駅の待合所に座って動けないまま一時間が経った。

 本当に自由の効かない体になってしまった、と思う。動かないといけないと焦る気持ちとは裏腹に、足に力が入らない。全身は鉛のように重く、このまま気分が悪くなるまでいつまでも座っていられそうだと思った。もっとも気分なら、昨晩からずっと悪いのだが。

 結局、生存本能からの訴えによりようやく重い腰を上げるに至った。喉は荒れ地のようだし、空腹感は色々なものを通り越してすでによくわからないのだが「このままだとたぶんマズイ」と思うくらいには肉体に変調をきたしていた。頭は重く鈍痛が止まらない。決して不快な気温でもないのに、脂汗が首筋を湿らせているのがわかった。

 僕は駅を出て、適当な定食屋へ入った。



 ようやく一息つけたのは出雲大社へ向かうタクシーの中だった。

 昼時の定食屋に長居するほど分別がないわけでもなく、体力の回復も待たずに名も知らぬ定食屋を出た。

 そのまま無意識に駅の待合室に戻ろうとする足取りに気づいて、駅のタクシー乗り場へと目指す場所を変えた。言わずもがな、何もできなくなることが見えていたから。味は覚えていない。何を頼んだかも印象に残っていない。思い出そうとして、そうする意味も必要もないことに気が付いて、僕は別のことを考える。

 出雲大社を目指したのは特段理由があるわけでもなく、せっかく島根に来たのだから島根らしいところに行こうと思ったからだ。それと、単純に神様でもなんでも、今の状況をなんとかしてほしかったから。

 タクシーの車窓から出雲の街並を眺める。のっぺりした街だ、と思った。大半の建物は高くて三、四階建て程度。高い建物といえば、おそらく比較的最近できたであろう真新しい高層マンションくらいで、いつも過ごしている東京で感じるような空を覆う圧迫感というものも感じなかった。

 二十分もすれば市街地を抜けて農道のような道に出る。収穫が終わり、水を張ってない田園を真横に眺める。夏にはさぞ色鮮やかな稲の緑色が、秋にはさぞ眩しい稲穂の黄金色が、田園を覆うのだろう。もっとも目の前には、ひと月ふた月前に刈り取りが終わってしまった田園のくすんだ黄色と、厚い雲に覆われた空の灰色が広がるばかりだった。

 そんな中を、くたびれたスーツの僕を乗せたタクシーは行く。



 父は遠い昔、僕が物心つく前に亡くなった。母は、女手一つで僕を育ててくれた。小さな安アパートで過ごした母との十八年間は、貧しいながらも幸せだった。今思えば駆け落ちだったのだろうと思うが、母方も父方も、祖父母とは縁が切れていた。友人にはみな祖父母がいるのに自分にはいないと気づいてはいたが、父がいないこともあり「そういうものなのだろう」と思っていた。

 港の食堂で働く傍ら、事務仕事も手伝っていた母は、今思えば同世代と比べ老けていたように思う。母は、線が細く幸の薄い雰囲気をまとっていたが、それを感じさせない強い芯も同時に持っていた。そして、いつも僕に向ける暖かな笑顔は何よりも僕の心を満ち足りたものにし、それだけで幼少期の僕は幸せだった。

 中学を卒業するかというころ、進路について母と話す機会があった。僕は忙しなく働く母の姿を見ていたから、すぐにでも働きたいと申し出たが、母は頑なに高校を出て大学へ行けと言った。

 とはいえ、僕にも譲れないところがあり議論は平行線を辿った。母親には悪いと思いつつ、「そもそもそんなお金、うちにはないだろう」と言った。母子家庭で我が家が裕福ではないことは知っていたし、現実的に考えても、高校はまだしも大学になぞ行けるものか、というのは当時の僕の偽らざる気持ちだった。

 そんな僕に対し、母親は、地元自治体の補助金と成績優秀者に対する返済不要の奨学金、近場の私立高校の授業料免除制度、大学の特待生制度について説明した。そして悪いことに、当時、こと高校に関して言えばだが、僕はそれを満たすくらいの頭のデキは持っていた。

 結局大学も、母の勧めで特待生制度のある私立大学を片っ端から受けた。そうして僕は、その中でも条件の良い関東の私立大学へ行くこととなった。

 大学は楽しかった。生活費をバイトで稼いで母へ仕送りもしたが、それでも残るお金で、幾分か人並のお金の使い方ができるようになった。沢山の人に触れて、初めての彼女もできた。そこで初めて、僕は自分の人生というものを考えるようになった。考えた末、僕は東京で就職することにした。地元へ戻ってもロクな就職口は無かったし、母は東京に来て一緒に住めばよいと思った。あるいは今のように別れて暮らしていても、自分が金銭的に面倒を見ることも可能だと思った。

 母はまだ全てが終わったような年ではない。母もまだまだ自分の幸せを追い求められる年だと思っていた。

 やっと母に返せる、そう思っていた。

 僕が大学を卒業する直前、母は倒れた。



 自分が連絡を受けた後は全てが終わった後だった。せめて倒れた時に傍に誰かがいたら、と後に医師がこぼした。

 感傷に浸る間もなく、自分が喪主となり事務的に葬式を挙げた。その中で、母の母親を名乗る女性が訪ねてきた。

 会うなり罵倒された。それも浴びせられた言葉は一つや二つではない。はじめは何を言われているのかわからなかった。聞いてみれば、母が死んだ原因は僕にある、と言っていたようだった。

「お前がいたから」

「やはりあの男の血が」

 抜け殻のようになっていた僕は何も言い返すこともできず、言い返す必要性を感じることもなく、逃げるように故郷を後にした。母の母親、つまり僕の祖母は言った。相続なんてどうでもいいが、遺骨の所有権に関しては弁護士を立てる用意がある、と。結局、母の遺骨は祖母が取得し、僕は母が眠っている墓の在処さえ教えてもらうことができず、家族と故郷を失くしたのだった。



「お客さん、どっか都会からかい?」

 ふと、これまでこれまで一言も発しなかった運転手は言った。

「……あぁ、まぁ、ええ」

 思わず空返事を返す。自分に話しかけられていることがわからず、反応が遅れてしまった。

「そう。お客さんいい時に来たね。知ってるかはしらないけど、今の時期はカミアリヅキって言ってね、全国から八百万の神様が出雲に集まるって言われてるんですよ。ほら、ふつう、十一月って神無月って言うでしょ。でも出雲には神様がいるから、神在月」

「へぇ……」

「ま、だから、それだけ神様がいるのなら、お客さんの悩みの一つくらい、叶えてくれるかもしれないねぇ」

 そこでようやくドライバーの意図がわかった。くたびれたスーツ、疲れた様子でタクシーを拾って出雲大社へ行く。おまけに自分ではわからないが、たぶんそれなりに臭い。どう考えてもワケアリだ。彼はそんな僕の身を案じてくれたのだろう。

 確かに、見ず知らずのタクシー運転手に心配されるくらいひどい顔をしている自信はある。

「はは、そうだといいですけど」

 変わらず空を覆う分厚い曇を見て、僕は苦笑いを返した。



 わかっていたことではあるが、結局神の庭でも何かあるわけもなく、僕は今こうして駅前のラウンジで酒を飲んでいる。

 あの後、参拝して神頼みしたところで天啓があるわけもなく、変わらず鉛のような体ともやがかった意識でぼんやりと過ごしていた。出雲大社は荘厳な雰囲気だった。とはいえ、だから何か自分の人生にプラスとなるわけでもなく、感銘を受けるわけでもなく、無感動に僕は市街中心部に戻ってきていた。宿のことも何も考えていない。考えられない。宿に入れば僕はずっと横になって時間を過ごすだけだろう。だから、せめてもの抵抗で、宿はとっていない。体を動かすのが面倒なのとどっちが本当の理由だろうか、と、自嘲しながら。

 夜が動き出す時間になり酒が飲める店に入った。もっとも、求めたのは居酒屋ではない。少しでも何かに縋りたくて、女の子がお酒をついでくれるところに入った。

「ウィスキーでいいよ」

 僕は本来、あまりお酒は好きなほうではない。それでも、アルコールが嫌なことを忘れさせてくれるのは知っていたし、酒に逃げたことも今までの人生の中では、ある。僕にはもう、酒か女に縋るくらいしかやることがなかった。

 とはいえ、酒と女を求めて入ったクセに、正直なところこういう女の子がついてくれる店はあまり得意ではない。

 こういう店では馬鹿になって気持ちよく自慢話をしていればよい。そうわかっていても、自分の性格がそうさせない。だから、目の前に座っている女の子からは、ノリが悪くやりづらい、どうせ「この人はなぜここにきたのだろう」と思われているのだろう、と若干の被害妄想を感じていた。それでもこの手の店に来てしまったのは、僕が人恋しさを抱いていたからだろう。それもこれも、全部あの夢のせいだ。そう思って、僕はグラスを煽った。



 横についてくれた女性は、茶髪で、失礼ながらあまり学がなさそうだな、という印象を受けた。僕は当たり障りのない会話をしかすることができなくて、いくら人恋しかったとはいえ失敗したかな、と。そんなことを思っていると、「アキちゃーん、きたよー」なんて陽気なサラリーマンの声が店の入り口から聞こえてくる。「ゴメンネ」と一言言い残し、アキちゃんはそのサラリーマンのところに行ってしまった。

 ちびちびウィスキーを傾ける。どうにも酔えない。まだまだ時間は残っている。思わず左手につけた時計を確認して、十五分しか経っていないことに思わずため息をついたところだった。

 「こんばんは」

 俯いていた僕の頭上から声がかかる。頭を上げるとそこには黒髪長髪の女性が腰掛けていた。彼女は自分のことを、佑香と名乗った。

「へぇ。東京から来たんだね。だったら、面白いところの話でもしてよ。私、島根から出たことないから、聞きたいな」

 一目見たときから、僕は佑香に目を奪われた。正確には佑香の顔に、だ。

「へー、他には他には?教えて?」

 話しながら佑香を見る。

 佑香は、僕の知っている顔をしていた。見間違えるはずがない。忘れるはずがない。それはまぎれもなく、僕が幼少期にいつも見ていた、若き日の母の顔。

 ただ、拭いようのない違和感がそこにはある。亡き母の顔をしているから。いや、それだけではない。もちろん、目の前の女性は母ではない。別人だ。それはわかっている。僕が佑香に感じる強烈な違和感の正体はすぐにわかった。あはは、と快活そうに笑う佑香の顔、母と瓜二つなその表情とは裏腹に、僕を見つめる佑香の瞳は一つも笑っていなかった。



十一

 佑香は落ち着いた娘だった。年齢はハタチとは言っていたが、もう少し上に見える。実際、そうなのかもしれない。

 ただ、佑香は落ち着いていながらよく笑い、そのたびに漆黒のロングが揺れ、ころころと表情が変わる。やはりその顔だちは、とても母に似ている。でも、母の優しい眼差しを知っているからこそ、同じ顔をしているからこそ、両の瞳から覗く無気力な彼女の意思、その一点が違うだけで、強烈な違和感とアンバランスな危うさを僕は佑香に感じていた。

 佑香とは色々な話をしたが、僕は、うまく言葉を紡ぐことができなかった。

 はじめ、二、三、別れた彼女と行った記憶を頼りに関東近辺の観光地をつまらなさそうに答えた僕に代わって、佑香は会話の主導権を握ってくれた。やれ島根はどこが楽しい、何がおいしい。小一時間の間に、随分とこの見ず知らずの土地に対して詳しくなった。

 それは決して会話のキャッチボールではなかった。佑香が一方的に喋るのを酒の肴に飲んでいただけだ。それなのに、たったそれだけのことで、僕は佑香に対して特別な感情を抱いてしまっていた。

 

 それが何なのかはわからない。彼女を通して母の思い出を想起しているのか、目の前の佑香という女性そのものに特別な感情を抱いているのか、それを知るには残り七十分という時間は短すぎた。

 しかし、延長すればよいという話でもない。多少時間が増えたところで、どうにもならないことは自分でわかっている。だから、僕は焦っていた。理由はどうあれ、僕は佑香に惹かれていた。まだまだ目の前の女性と一緒にいたい、それだけのことをを考えていた。

 会話が途切れる。

 不意に僕は言った。

「きみ、一晩いくら?」

 一拍、ポカンとした後、佑香の口角はゆっくりと下がった。熱の入っていない人形のような佑香の視線を真正面から見つめ返す。思わず口に出てしまった言葉だが、後悔はしていない。

 自分は馬鹿だとは思うが、ただ今は、とにかくどんな手を使っても彼女と別れたくなかった。

「百万」

 無機質な響き、佑香の口だけが動く。

 僕と佑香の周りだけ時間が止まっているみたいだな、なんて他人事のように思っていた。

 一つテーブルを空けて、別のテーブルのサラリーマンが歌う陽気なアイドルソングは、僕の耳には一切届いていなかった。

「いいよ」

「は?」

 僕は答える。訝しげる佑香に対し、僕は左手から時計を外しおもむろにテーブルに置いた。

「質屋に入れれば五十万くらいにはなる。あとは後日払うから」



十二

「んっ……」

 暗闇に佑香の裸体を見つめる。僕は佑香の唇を貪った。舌を通して佑香の温かみを感じるが、僕は同時に、自分の体の内が冷え切っていることを感じていた。

「早くして」

 仰向けに、自身の部屋のベッドに横になる佑香。不機嫌そうな声色を隠すことなく佑香は言った。

 佑香の体を蹂躙しながら思う。一体自分は何故こんなことをしているのだろう。

 佑香を買う買わないというのは方便で、必ずしもセックスが目的というわけではなかったはずだ。それでも今こうして事にいそしんでいることを考えると、やはり僕は佑香に女性的な魅力を感じているのだろうか。

 わからない。いったい自分はどうしたらよかったのだろう、自分は何がしたかったのだろう。

 段々と、理性が曖昧になってくる。暗闇にうっすら見える佑香の顔を感じながら、僕は思う。僕はあの時、どうすれば良かったのだろう。母は、どのような気持ちで逝ったのだろう。

 不意に、昨晩サンライズで見た夢を思い出した。なんで今、と思うより前に、夢で感じたぬくもりが体の表面をなぞる。佑香に覆いかぶさり不格好に腰を振りながら感じるのは、本来鋭敏なはずの局部よりむしろ、接する上半身のぬくもりだった。

「あっ」

 ヤバイ、そう思った時にはもう手遅れで。ぐちゃぐちゃになった気持ちを吐き出すように、僕は佑香の顔に涙を零した。

「えっ、ちょっ、なんであんたが泣いてんの」

 一滴、二滴、一度決壊してしまえばあとはどうにもならない。僕は涙を零し、嗚咽し続けた。



十三

 気づけば、僕のからだは佑香の両腕に包まれていた。僕の背中に手を回し、子供をあやすように一定のリズムを刻む佑香の手。

 ふと、子守歌が聞こえてきた気がした。でもそれは、佑香が歌っているわけでは決してない。そのことを僕は知っていた。だってそれは、僕の生まれ育った北陸地方の方言の効いた子守歌だったから。

 いつか感じたぬくもりを感じながら、僕の気持ちは遠く深いまどろみへと落ちていった。



十四

「あー……」

 やってしまったという後悔だけが頭にある。僕は未だ寝息を立てている佑香に抱きしめられて、朝を迎えた。

 すーすーと、穏やかな表情で横たわる佑香を眺める。

 昨晩のことを思い出す。何故あんなことをしたのだろうか。ヤらせろ、とラウンジで言ったところから、全部だ。

 しばらくダメージを受けた後、ふと部屋を見渡した。1Kの安アパート。それも、この一部屋は六畳だろうか。とはいえ、そこまで狭く見えない。

「なんていうか、女の部屋っていうと、もっとこう……」

 別れた彼女の部屋を思い出す。それに比べて、佑香の部屋はあまりにも殺風景だ。スカスカというか、必要最低限のものしか無いように感じる。

 佑香個人の色というものを感じられない部屋だと思った。唯一目を引くのは、部屋の片隅にあるCDラジカセとその横にあるCDラックくらいだろうか、

 部屋の様子も相まって、どうしても佑香の、あの、強烈な違和感を覚えた瞳が気になってしまう。

 ふと、傍らに眠る佑香に目をやった。

 こうして眠っているのを見ると、ますますもって母と瓜二つだと思う。ゆるやかなカーブを描く目じりは優しそうで、どこか儚い。しかし寝ている佑香を見ても母から感じたような芯の強い印象を受けないのは、昨日の佑香を知っているからだろうか。

 今更否定しようとも思わないが、僕は佑香に亡き母を重ねているところが少なからずあるのは事実だ。しかしそれでも、佑香とセックスすること自体に嫌悪感を感じなかったことを考えると、僕は、佑香と母を別人として捉えているのだろうと思う。

 そこまで考えてまたわからなくなる。

 僕は佑香に惚れたのだろうか。あるいは、僕は佑香に亡き母を重ねて何がしたいのだろうか。



十五

 しかし昨晩の自分はひどかったと苦笑いを浮かべる。もう少しやり方があるだろという話で。オブラートにも包まず一晩買わせてくれと言ったコミュニケーション能力の欠如はひどい。その上、独りよがりに挿入しといて挙句の果てに号泣というのは、人生史上ワーストのみっともなさで間違いない。

 ただ、そんな醜態を差し引いても後悔の念は無かった。

 佑香に対する感情への自問自答の末、堂々巡りとなった思索はとりあえず横に置いておいて、佑香の顔を見つめる僕の心は、ここのところずっと感じていなかった温かなものを確かに感じていたから。



十六

 佑香の運転する、国産の軽自動車が海沿いの道をゆく。

 もう少し付き合ってくれないかと、僕は言った。

「なんで」

「だってヤってないし」

「入れたでしょ」

「だってイってないし」

「はー……」

 そんなやり取りを経て、僕は佑香の車の助手席に座っている。

 島根を案内してほしいと僕は言った。結局のところ、佑香と一緒に過ごすことが目的だったから、どうやって過ごすというのは比較的どうでも良かったのだが。

「じゃあ、どこか行きたいところあるの?」

 そんな問いに対して僕は、決して昨日には提示できなかった答えを一つ絞り出していた。

「海が見たい」

 車を運転する佑香の横で、僕は黙って海を見ていた。

 潮の匂いがする。

 昨日からセンチメンタルになっている。海が見たいというのも昔を思い出したからだし、佑香のことを考える上で判断材料が増えてほしかったからだ。

 出雲市の市街地から車を走らせること、およそ三十分程度。市街の西側、島根半島の先っぽを訪れた。日御碕という。そこにある灯台など「ふーん」以外の感想が無く、案内してくれた佑香に若干の申し訳なさを感じていたくらいなのだが、その後、日本海沿いの道を走る際に見かけた小さな漁村に僕は目を奪われていた。

 何を思い出すでもない。感じるものがあるとすると、雰囲気とでも言えば良いのだろうか。少し時化た日本海と潮の匂いは、故郷の風景を感じさせるのに十分だった。

「このあたりは地元民でも用がないと来ないんだから」

「この道狭いから嫌いなのよね」

 なんて不満を漏らしながらハンドルを握る佑香。昨日、ラウンジで快活に笑う彼女とは似ても似つかない投げやりさが、そこにはあった。

 おそらくこれが彼女の素なのだろう。同じ顔をしていても随分母と違うな、それも悪い方向で、と思うと思わず笑ってしまう。

「何よ、その顔」

「いや何でも……」

 そう言いながら、思わず頬が緩む。普段使ってない表情筋を使ったからだろうか、笑みが引きつっていたのがわかる。でも、こんなに自然に笑みが浮かんだのはいつぶりだろうか。と思いながら、それも少しおかしくて僕は笑ってしまった。



十七

 ふと日本海を見る。今日も曇天だ。海と空のコントラストは決して映える色をしているわけでもない。それでも、昨日よりも若干雲が薄い気がするが、曇天であることに変わりは無かった。

「曇っているね」

 僕は言った。

「山陰だからね」

 佑香は答える。

 山陰だから、というのは答えになっているのだろうか。納得しきれない僕を感じたのか、佑香は話を続ける。

「知っているのか知らないけど、地形的に山陰は雨が多いの。日本海からの湿気を含んだ風が中国山地とぶつかるから……」

 佑香の話を聞きながら思う。昨日からちょくちょく感じるのだが、彼女は頭が良い。ラウンジでの彼女も、僕の人間性を把握して、彼女が会話の主導権を握りつつ、ところどころで僕に話を振ってくれた。それに思い出すのは、快活に笑い、どこか男好きのする無邪気な役柄を完全に演じていた彼女の姿だ。一体彼女の人生に何があって、夜の街で生計を立てるようになったのか。それは知らないし、自分に踏み込む権利が無いこともわかったうえで、それでも僕はそれが気になってしまった。

「随分と博識なんだね」

「別に、これくらい普通よ」

 そう言いながらも否定しきれていないのが自分でわかるのだろう。佑香はバツが悪そうな顔をしていた。

 その後、佑香は強引に話題を戻し、天気の話をしだした。

 佑香は僕に、ある岡山県民が島根で就職したが、その子は気候が合わないと言って結局一年程度で仕事を辞め岡山へ帰ってしまったという話をした。

「ふーん」

 面白いのか面白くないのかよくわからない話だ、と思った。そんなことで仕事を辞めるのは不真面目なのかどうなのか、と自分の状況を棚に上げて、僕は考えていた。

「納得していなさそうな顔ね。その人にとって生活環境はそれだけ重要だったんでしょう。それに、あなたにとっては重要でないことも、人にとっては重要なことぐらいあるのは知っているでしょう。あなたが昨晩百万万で私みたいなよくわからないのを買ったようにね」

 若干不機嫌そうに、言い捨てる佑香。

 それを聞いて、思う。佑香は、昨日の僕が「買えれば誰でも良かった」と思って佑香を買ったと思っているのだろうか。

「君だから、買ったんだ。それだけは勘違いしてほしくない、かな」

「ふん……」

 納得いかなそうに、佑香は鼻で笑った。



十八

 日本海側の道を経由して、一路、県庁所在地の松江を目指す。着くまでの間にちょっとした時間があり、僕は助手席で佑香のことを考えていた。

 佑香の人となりを僕はよく知らない。知っているのは、あのラウンジで働いていること、佑香という名前、一人暮らしをしていることくらいだ。そもそも、佑香という名前が本名なのかもわからない。今朝、もう少し付き合って、と、僕は言った。佑香の仕事やプライベードのことなど一切考えていない。佑香は何も言わずに付き合ってくれている。つまりはそういうことなのだろう。

 やはり、僕は未だに佑香に対する感情に答えを出せていない。だから、佑香のことをもっと知りたいと思った。でも、根掘り葉掘りどころか、少しでも突っ込んだことを聞くのははばかられた。

 佑香は何かワケありだと思った。それが何なのかはわからない。でも、あの殺風景な部屋と佑香の瞳を見れば、何かしら感じるところはある。

 多分僕は、佑香に対して同類の匂いを感じているのだろう。

 そしてそれは、佑香からしてもそうなのかもしれない。

 随分とおめでたい頭だとは自分でも思うが、佑香が今付き合ってくれているのは金の問題ではなく、佑香も僕に対して何かを感じ取ってくれているのだろう、という、よくわからない確信があった。

 昨日朝、サンライズから窓越しに見た湖を眺めながら、車は走る。

 カーステレオから流れるレッドツェッペリンと、エンジン音だけが聞こえる。

 何曲か聞いて、ツェッペリンだとわかった。洋楽にはあまり詳しくないが、この曲だけは知っている。おそらく、今まで車内で聴いた曲もすべてそうだったのだろう。

「随分と古いのを聴くんだね」

「父が好きだったから」

 何も言えなくなり、それきり会話がなくなった。

 僕は佑香とどうなりたいのだろうかと、考えていた。

 衝動的に佑香を買い、これまた衝動的にデートのようなものを申し込んだ。

 僕が佑香に惹かれているのは、母に似ていること、佑香が何か危ういものの上に立っているように感じること、その二点だ。

 僕は、自分の生き様に悔いがある。母にしてやれなかったことは一つや二つではない。結局、何一つ返せないまま母は逝ってしまった。佑香に恩返しをすることで、僕は自分を許したいのだろうか。

 そこまで考えて、その先を考えるのをやめる。それは自分のエゴとしか言いようがないし、もしそうだとしても、僕は自分を許したくなかった。

 それとも、僕は佑香のことが一人の女性として好きになってしまったんだろうか。仮にもしそうだとしても、それこそどうしようもない。

 僕はロマンチストではない。現実主義者なのかは知らないが、少なくとも現実は「知っている」。だから、佑香と付き合いたいとかそういうことは無理だと思っている。

 じゃあセックスしたいだけか、それも違う。セックスはしたいのだが、だからといって佑香の形をした心のない人形を抱ければいいというわけではない。

 結局、どの問いにも答えが出ぬまま目的地に着いた。

 唯一わかったのは、この佑香との時間が僕のエゴイスティックな部分によるものだということだけだった。



十九

 松江についた。出雲ほどではないが、低い街だ。もっとも日本なんて、首都圏やごく一部の都会地以外はみなこのような街なのかもしれないが。

 案内してよと言ったのだが、佑香もガイドではないため有名所しかわからない。「それでもいい?」と言う佑香に対して、いいよと返した。本当は行く場所なんてどうでもいいから、とは、もちろん言えない。

 松江城とやらへ行った。

「少し前に国宝になったのよ。よくわからないけど」

 苦笑いする佑香。僕も詳しくないのでよくわからなかった。

 天守からは松江の街が一望できる。前方右手に、通ってきた湖沿いの道を眺める。こういう観光らしい観光をするのはいつぶりだろうか。昨日も出雲大社に行ったのだが、観光をした気分には一切ならなかった。そういえば、と、今頃、昨日のことを思い出す。

「そういえば、神様って信じる?」

 何気なく、僕は佑香に聞いた。

 佑香は視線を松江の街から外さず、少し考えて答えた。

「別に、いてもいなくても私には関係ない」

 そのあとは松江城をぐるりと囲む堀を楽しむ、小さな観光船に乗る。船は小さな木造りの船で、船頭さんが木の棒で進路を変えつつ堀川を回る。その後、いくつか女性に人気のパワースポットだとか、ミーハー以外の何物でもない浅さで観光地を巡り、時を過ごした。

 ふと夕方、松江から出雲へ向かう車内で思う。佑香と出会ってから、あの頭に響く鈍痛をあまり感じていない。体を包んでいたけだるさもまた同様だ。何も答えが出たわけでもないのに。僕の人生が良くなったことなど、客観的に見れば一つもないのに、僕は少し楽しくなって、進行方向右手、夕日の沈む宍道湖を眺めていた。



二十

 一通り観光を終えた帰り道、道沿いにいくつかある近場の温泉地の説明をしてくれた佑香に対して「いこうよ」と僕は言った。

 泊まろう、と言ったわけではないが、僕の浅はかな考えなど佑香は見過ごしている気がするし、実際そうなのだろう。

 僕と佑香は一日同じ時間を過ごして、多少は打ち解けたように感じる。朝、彼女の表情を支配していた不機嫌さはどこか抜けていた。佑香はしょうがないなぁという顔をして、「いいよ」と言った。

 島根の道の感想は、「視界に占める緑の面積が多く、どこを見ても視力が回復しそう」という馬鹿みたいなものだったが、一本国道をそれるとそれは更に顕著になる。

 すぐに山のふもとに突き当たり、建物の姿はまばらになる。商店の一つもない。

 もともと、中国山地と日本海の間、少ない平野を中心に街が細長く位置するような地理をしていることを考えると、それも納得できた。

「観光客向けと隠れ家的なやつ、どっちがいい?」

 そんな佑香の問いに対し。

「隠れ家的なやつ」

 と僕は答える。

 どちらも抽象的な表現だなと思った。それに隠れ家的とは、一歩間違えば仙人が住んでいるようなあばら家でも周囲の雰囲気でそう言えるかもしれないし、あるいは金をかけて髄を凝らして、隠れ家的雰囲気を出すべくして出した高級宿かもしれない。

「昔はもっとさびれた温泉地だったんだけどね。悪い意味でさびれた温泉地。でも少し前に開発されて今じゃすっかりこんな感じ」

 なるほど、最近開発されたという佑香の言葉の通り、遠目に見ても新しく、綺麗な宿といった印象を受ける。

 山間に位置し、周囲百メートルくらいには民家も無い。

 夜の帳が落ちた中、宿の玄関に通じる一本道を暖色の間接照明が照らす。石畳の一本道を歩き、左右に積もった紅葉が僕らの足元を彩る。

 正しくこれは大人の隠れ家だなぁと、一人思っていた。それも社会的地位の高そうな人が来そうな。

 雰囲気のある、とはいえもちろん真新しい門をくぐって、宿の受付へ向かった。

 受付で、後ろについてきていた佑香に対し、振り返って僕は言う。

「泊まりでいいよね」

 なんて当たり前みたいな顔して。

 別にお金のことでどうこう言うつもりは無いのだが、一晩で諭吉が八枚飛んだ。



二一

 ドアを開けると、これまた暖色の照明に照らされた室内が僕と佑香を出迎えた。二人で八万払うだけある、と思った。寝室スペース、リビングにウッドデッキ。

「うわ……」

「わっ……」

 そして部屋の奥に見える部屋付きの露天風呂で、思わずハモる。ヒノキ造りと説明された露天風呂の周囲には、紅葉が積もっている。

 とにかく金かかってんなという印象を受けた。こんな宿を選んだ佑香へ恨み言の一つでも言ってやろうかと思ったが、それよりも見た目の美しさに驚きが勝る。

 唖然としている僕を横目に見て、佑香は言った。

「あなた、金持ちじゃないのになんであんなことしたのよ」

 あんなこと、とは、おそらく時計のことだろう。しかし僕が貧乏とも言ってないはずだが、と疑問に思っていた。

「わかるわよ、一日一緒にいてあなたのこと見てれば、ね。それにあなた、借りてきた猫みたいになってるの、似合わないね」

 そう言って佑香は笑った。

「確かに落ち着かないな」

「私も」

「もっとはしゃいでいいんだぞ」

「あはは」

 そうやって、笑って。でも落ち着かないのは確かだ。僕も佑香も、迷い込んでしまった猫みたいな顔をして突っ立っていた。



二二

「お茶入れたげよっか」

 そう言って荷物を下ろした佑香の腕を、僕は掴む。

「っ……」

 立ったまま、佑香の体を強引に引き寄せ唇を奪った。左手を背中に回し、腰を密着させる。しばらく舌先に触れる温かさを感じていたが、しばらくして厳しい目で僕を見ている佑香に気づいた。

「何してんの」

 佑香は責めるような口調で僕に言う。

「キス」

 僕は悪びれない。

「……」

「……」

 しばらくの間見つめあっていた僕と佑香だったが、先に目を逸らしたのは佑香のほうだった。

「はー……」

 わざとらしく大きなため息をついて右手で僕の胸板を押し、距離を取った。

「お風呂入る」

 そして僕は、佑香を貪った。

 自分が興奮しているのがわかる。今思えばだが、昨晩はとてもとてもセックスできるような気分ではなかった。

 昨日別れた彼女と最後にシたのは数か月前だろうか。ただ、その時も半ば義務的なものであったように思う。

 だからだろうか、僕の姿は発情という言葉が正に正しく、獣のようにという言葉もまた正しく、つまり、僕はひたすらに佑香を犯した。

 絡ませる舌に力を入れながら佑香の口内を蹂躙する。腕をつかみ、押し倒し、欲望をぶつけ、佑香の持っている、佑香の魅力を貪り食う。

 結局のところ、今となっても僕は彼女に対する明確な答えを何一つ出せていなかった。

 佑香とは、昨日初めて出会って丸一日しか経っていない。客観的に見れば、完全に「惚れている」状態だ。この感情のことを「惚れている」と言うのは、母に対する感情の手前、抵抗があるのだが。

 そこまで考えて、僕は細かいことを考えるのをやめた。

 目の前に佑香の肢体がある。今の僕には、その情報だけで十分だった。



二三

「私ね……私、悩みがあるんだ」

「そう」

「そうって、ほんと気が利かないのね、あなた」

「聞いてほしいの?」

「いや、別にいい」

「なんだそれ」

「あなたも悩み、あるでしょ」

「あるよ」

「知ってた」

「うん」

「聞いてあげよっか」

「いや、別にいいよ」

「ほんっと、気が利かない」

 暗闇の中、聴覚が拾う彼女の嫌味っぽいつぶやきは、どこか笑っているような。泣いているような。



二四

「はい、すみません、体調不良で……はい、先方への電話はこちらでやります。今日は基本的に書類仕事をしようと考えていたので、急ぎのアポは特に。はい、大口も……無いですね、はい、はい」

 島根に来て三日目の朝になる。僕はついに仕事をズル休みした。

「はー……」

 ため息が漏れる。

「そんなことなら東京帰ればよかったのに」

「休むのはいいんだけど、罪悪感を感じるか感じないかは別なの」

 やっちまったなぁと思う。別に今まで真面目に働いてきたことを考えれば一日休むくらいどうってことないのだが。

 普段病欠なんてほとんどすることは無いのだから、ズル休みと思われることもない。電話口の、いつも厳しい上司にも不自然な様子はなく、当たり前のように休みを勝ち取った。ちなみに、以前一日だけ本当の病欠で休んだことがあるから、有給休暇は残り三十八日余っている。

「どうするの?」

 佑香が僕に問いかける。

「どうしよっか」

 何も考えずに僕は空返事を返した。だって、本当に何も考えていなかったから。今日のこと、仕事のこと、そして多分、他のことも。

 佑香の問いかけ、それが意味するのは今日一日のことか、それとも。別に佑香に身の上を話したわけではないが、佑香は、僕が迷っている、悩んでいることを知っている。だってこの二日間で、僕にだって、佑香が何かを抱えていることくらいはわかったのだから。

「ねぇ、セックスしたい」

 結局、僕は答えを出さず、また佑香に甘えようと布団に横たわる佑香の胸に顔をうずめた。

「……」

 視線を上げるとすぐそこに佑香の顔があるのだが、顔を見なくてもわかる。「こいつは……」という顔をしている。

 繰り返しになるが、僕は島根の地にこれといった思い入れはない。観光も、嫌いなわけではないが特段好きというわけでもなく、つまり今の僕は佑香と一緒にいられればそれでいいのだ。

 佑香を見上げる。やっぱり佑香は、僕の想像の通り呆れた顔をしていた。



二五

 窓からは悪くない陽ざしが差し込んでいた。空を覆う曇の割合は決して少なくはないが、時折雲間から覗く陽光は、季節に似合わず暖かみを感じるものだと思った。

 舌を絡めながら、明るい部屋で佑香の顔を見る。やっぱり整った顔をしているな、と思った。 一昨晩はそんな余裕が無かったし、昨晩は暗くてわからなかったけど、思う。佑香は綺麗だ。 そう考えているうちに意識が飛んでいたのだろう。ふと、佑香の視線を感じた。

「自分からヤりたいって言っといて気分は上の空だし、ここも元気が無いのは人としてどうなの」

 片手で僕のモノを触りながら、今日何度目になるだろうかというあきれ顔で僕を非難する佑香。

 うん、確かに小さくなっている。これは大変申し訳ない。気まずさを隠すように、僕は聞いた。

「佑香もさ、死ぬのかな?」

「はぁ? 何言ってんのよ。死なないわよ。いや、死ぬけどさ」

「うん」

 よくわからないまま、僕は頷いた。特に意味のある反応をしたつもりは無かったのだけれど、僕を見た佑香のあきれ顔が見る見るうちに不機嫌に色を変えていく。佑香は声を荒げて言った。

「私があんたに腹立つのはね、そうやって、わかったふりして意味深なこと私に投げて、一人でやっぱりわかったふりして、そのくせ突っ込んだところには足を踏み込まない。人はね、あんたを満足させる道具じゃないのよ」

 初めて見る激情。

「ほんっとーに癪だけど、説教してあげる。いい?あんたが何に悩んでるのか知らないけどね、ぐちぐちぐちぐち、どうしようもないことなんじゃないのどうせ。何日か過ごしてわかったけどね、あんたは普通よ。どうしようもないほどに。だから今までの人生だって、あんたが歩んできた人生なら、別にそんな変なことしてきたわけでもないんでしょう、どうしようもなかったんでしょう。なら、あんたはこれからの、自分のことだけ考えなさい。私『も』死ぬのって、私と誰を重ねてるのか知らないけどね、人を勝手に殺すな、不幸にするな。私の人生は私の人生なのよ。あんたのためにあるんじゃない。あんたは自分の人生だけ考えてればいいの、わかった!?」

「はい」

「じゃあさっさと、この元気がないやつを元気にしなさい」

 なんとなく、わかったことがある。

 母の強さは僕が一番知っていたはずだった。それを勝手に弱くして、もっと自分にできることがあったんじゃないかと、悲劇ぶっていただけだ。僕が母と過ごした間、母はきっと幸せだったと思うし、たとえそうじゃなかったとしても僕がどうこう言えるものではない。佑香の言う通り、母の人生は母の人生だから、僕も含めて他人がどうこうしていいものではない。同じように僕は僕で、僕の人生を歩むしかない。そう考えたら心にあるもやが取れていく感じがして、パズルの最後のピースがはまった気がした。

 多分憑き物が落ちたかのような顔をしている僕とは対照的に、佑香は苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「どうしたの?佑香も悩みがあるんなら、アドバイスしてあげようか?」

「絶っ対に言わない!さっさとソレ大きくして入れろって言ってるのよ!!」

 そう声を荒げる佑香を改めて見る。初めて出会ったとき僕は、佑香の顔は亡き母に瓜二つだと感じた。でもそれも、よくわからなくなってしまった。目の前にいる女性は母ではない。佑香は佑香で、それ以上のこともそれ以下のことも無いのだと。



二六

 右腕に佑香の側頭部の重みを感じながら、一人旅館の天井を眺めていた。

 いい加減、潮時だろうと思った。

 佑香と付き合えると思うほど、僕は現実を知らないわけではない。仕事だってあるし、それに他にも……と思ったところで、僕にはほとんど何も残ってなかったことを思い出した。

「そうだったなぁ」

 ふと僕の腕の中で寝息を立てる佑香を見つめる。かわいいな畜生と思う。

「いっそのこと、仕事やめるか?」

 そう呟いて、簡単に馬鹿みたいなことを言った自分に笑ってしまった。

 僕の気持ちは決まった。



二七

「この度は大変申し訳ありませんでした!!」

 閑静な住宅街の中に位置する大きな門のある家で、僕は頭を下げていた。

 このあたりは都内でも高級住宅地として知られている。その中でもひときわ異彩を放つ大きさの家の主が、僕の目の前に座っている優しそうなおばあさんだ。

一見するとヤクザの組長の家と思ってしまうような立派な門構えの家は、決してそうではなく、むしろ地元の名士のお屋敷と言えばそのイメージそのままで。

「あなたのほうから約束のキャンセルだなんて今まで一度も無かったから、心配したのよ」

 このおばあさんには、新人時代にっちもさっちもいかなかったときに、アポなし駄目元で訪問したことで気に入られたのだ。はっきり言って、この人がいなければ今の僕は無い。

「私はね、あなただから買ってるの。本当はね、お金なんてね、どうでもいいって思ってるんだから。いくらあっても、あの世には持っていけないものね」

 目の前のおばあさんには家族がいない。そんな人の資産運用のお手伝いをしたところで何になる、と言うのは外からの意見だ。こういう人だから、僕は何かしら力になりたいと思っている。

 結局のところ、僕はこの仕事が決して嫌いではないのだ。

 もちろん、口の悪い人にかかれば詐欺師だと言われることもある。でも、こうして僕のことをよく思ってお金を任せてくれる人が、一人や二人ではない。

 そういう人たちがいるうちは、頑張りたいと思った。そういう人たちの力になりたいと思った。だから、僕は何も言わず東京に帰ってきた。

 これで良かったと思う。もう佑香と会うことはないだろう。僕は佑香の連絡先を知らないし、佑香もまた僕の連絡先を知らない。

 再会する手段といえば、僕が佑香の家か出会った店に行くくらいで。だから、もう佑香と会うことは、おそらく無い。

 自分の人生を歩むなどここ何年もしていなかった、考えていなかったように思う。

 何かが変わってほしいとは思っていたが、何かが変わるとは思っていなかった。それでも縋った。そうしたら変わった。人生ってこんなちょっとのことで変わるんだな、と思う。別に、物理的に変わったことなど何一つ無いのだけれど。いや、一つ変わったことがあった。

「時計買わないとなぁ」

 そして思い出す。

「あー、残りのお金渡してない」

 ま、いいか、と。佑香にとってはよくはないだろうが、別れ際も佑香は何も言わなかったのだから、今更どうこうないだろう。

 会社への帰り道、今日は日中から晴れていて、若干欠けた月がよく見える。

 僕の人生にはこれから何が待っているのだろうかと、いや、僕は何をするべきだろうかと考えて、一週間ほど前より軽い足取りで、僕は帰社の道のりを急いだ。




エピローグ

 私の母親は専業主婦で、教育ママで、過干渉なところがあって、たまにヒステリックになる女性だった。私が一人になってから、子供に害をなす『毒親』という言葉を知った。今思えば彼女はその要件を満たしており、私は彼女に毒されるまま成長してしまったように思う。

 暴力や直接的な脅しによる強制は決して多くはなかったが、「勉強ができないと、まともな人生は歩めない」「何が何でも東大に入らないと、あなたの人生は無価値」と、恐怖心を煽り私の行動を支配しようとする言動に幼い私は抗うことができるはずもなく、ひらすら礼儀正しく振舞い、ひたすら勉強する毎日を送っていた。

 母は事あるごとに私に干渉した。

 いつしか、私は母の前では考えることをやめ、従順な操り人形を演じるようになった。

 次に私の父について話そう。

 父は、優しいが母に頭が上がらない、頼りない父親だった。

 気弱で家庭での発言も無いに等しい。私は基本的に母としかしゃべることがなかったし、父のことは、どこか親戚のおじさんのように感じていた。いや、陽気な親戚のおじさんと父では、前者のほうがより親近感を持っていた。つまり、他人に近い、そんな父だった。

 父は、その父、つまり私の祖父が立ち上げた水産業の会社を継ぎ、二代目社長として日々仕事をしていた。あのような父で社長が務まるのかと子供ながらに思っていたが、社員数人と小さいながらもそれなりに経営は順調のようで、たまに私が会社に行ったときは、みな優しく穏やかな時間が流れていたように思う。

 私が、自分の家が少しおかしいと感じ始めたのは小学三年生くらいのころだった。作文の宿題があった。『私の家族』というテーマで原稿用紙数枚程度のものだ。もともと私は作文が得意なほうではなかったが、その年齢で既に「求められている正解を書けば良い」ということを知っていた。だから他の勉強と同じようにこなせると、はじめはそう思っていた。

 だけど私は、題名と名前を書いたまま、一行も前に進めなくなってしまった。私には父や母に対する思いが、何もなかった。

 授業の時間五十分を使いそれでも出来なかった私や他の生徒は、それが二日後期限の宿題となった。

 私は早熟な子供だったと思う。だから、私は当時、なまじ他の勉強が出来た分、作文が書けないということに大きな羞恥を感じていた。だから、本当に恥を忍んで、クラスメイト数人に作文を見せてほしいと頼んだ。

 それでも、私の原稿用紙は一向に埋まる気配を見せなかった。

 私は結局、期限の前日夜、就寝時間の三十分前に作文を書き上げた。クラスメイトの作文を参考に嘘八百の父と母をでっち上げた、力技で書き上げた作文だった。

 そんな出来事がありながらも私の日常は流れていった。母は私に常に完璧を追い求め、私もそれに従った。私は次第に、考えることを放棄していった。

 そうして長らく、私は人形として無味な毎日を過ごした。

 終わりが始まったのはどこからだっただろうか。私が実感として気づいたのは高校三年生のころだった。

 当時の私は原因を知らなかったが、父の会社の業績悪化と比例するように、目に見えて父は痩せた。もともと細身だった父は、頬がこけ目のくぼみが目立つようになった。

 それと同時に、私の勉学に対する母親のヒステリーが激しくなった。私がいくら完璧を追い求めても、綻びは必ず出る。そのちょっとした綻びに母はわめき散らし、私も両親同様に追い込まれていった。

 勉強は手につかなくなり、模試の結果は目に見えて落ちた。東大以外意味がないという、約十年にもわたる母からの刷り込みは私を着実に追い詰め、悪化した模試の結果に母は更にヒステリーを起こした。

 結論から言うと私は受験に失敗し、浪人生の身となり、父の会社は倒産、両親は離婚した。

 母は隣県にある実家に戻った。

 浪人生の身であった私は大学どころか予備校に行くことも難しくなり、働くことにした。本当はその状況で大学に行く方法くらいあったのかもしれないが、当時の私にはそこまでして大学に行きたいという強い気持ちが無かった。

 法律上は未成年であるためどちらかに引き取られることになり、私は父を選んだ。父とはあまり接点が無かったが、母は二十数年専業主婦で過ごしており、金銭的にも父についていく方が良いと思ったし、母にとっても父にとってもそれで良かったように思う。私は受験に失敗した時点で、母の望む完璧な人形にはなれなかったのだ。

 私は近所のスーパーで働くことにした。そこが一番近くて、私でもできそうで、ちょうど良かったから。東大を目指していた自分が近所のスーパーで働くことに、抵抗はなかった。自分のことを知っている人間が陰で何かを言ったりするのだろうと思うと、それが少し面倒なだけだった。

 私はこれまでだって母の望む存在になるために勉強してきたし、これからも生きるために働くだけだ。今までも、これからも、私は必要に駆られて物事を選択していくだけだと、そう思った。

 父は自己破産して職を変えた。住んでいた一軒家を手放し、安アパートへと居を移した。

 父は、はじめは慣れない仕事に四苦八苦していたようだったが、この父と過ごした束の間は、皮肉にも私の人生の中で最も穏やかな時間となった。

 離婚する前は一日の大半を会社で過ごし、休日もあまり家に居つかなかった父だったが、雇われの身となり自分の休日を過ごすようになった。休みの日には、父に似合わない洋楽が、父の部屋から申し訳なさそうな音量で漏れくるようになった。

 そのサウンドは遠い遠い昔、数少ないながらも父の車に乗ったときに聞いたことがあった。

 私はいつしか、それを聞きながら家事をすることが自覚しないまでも好きになっていたように思う。

 父とは以前よりも多く話すようになった。今まで話してこなかったし、私ももう子供の年齢ではないので、『父』と聞いて一般的に思うような感覚ではおそらくないだろうと思うが、少なくとも陽気な親戚のおじさんより近い距離感で、父とは接することができていた。幸せという感覚を人生で初めて感じた気がした。

 ある日のこと、私は仕事場のスーパーの店長に呼び出された。人のいい五十くらいの男の人で、私はその人のことが嫌いではなかった。用件を言い出しにくそうにしている店長の右手には数枚の紙が握られており、それが何なのか話してくれた。

「ほら、私も、佑香さんのお父さんのことは知っているのだけれどね……」

 そう言って店長が見せてくれた紙の内容は、ワードでタイプしただけの無機質な印字とは逆に、私と、私の父に対する憎悪に満ちたものだった。

 詐欺師とか、死ねとか、挙げていけばきりがないけど、いわゆるそういうものだった。

 私はそれまでの人生で、人の悪意というものに晒されたことが無かった。だから生まれて初めて、人のことを怖いと思った。

 それから定期的に、スーパーの郵便受けに、私や私の父に対する嫌がらせの文書が入るようになった。そしてそれは家にもあった。父は言わなかったが、父の職場には随分前からそのような嫌がらせがあったようだ。

「もしかしてお前のところにも、何か来ているんじゃないのか」

 ある日のこと、父はポツリポツリと話してくれた。結局、会社が倒産して、父は自己破産してそれなりに綺麗な身になったが、物事はそう簡単には終わらない。金銭的に迷惑をかけた人が大勢いて、嫌がらせはそのその誰かだろう、という話だった。

 警察にもすがったが、まともに取り合ってはくれなかった。警察官も人ということだろう。本人は隠しているつもりのようだったが、父に対する「あなたの自業自得なんじゃないですか」という視線は今でも覚えている。

「もちろん、佑香ちゃんが悪いわけではないのだけれど、うちもね、他に従業員さんもいるし、商売上色々あるから……」

 そう言った店長の申し訳なさそうな顔が忘れられない。

 結局私はそのあと三回、父は四回仕事を変えた。

「佑香が一人で暮らすなら、佑香に迷惑はかからないかもしれない。こんなことを言う私は父親失格だとわかってはいるが……」

 なぜこんなことになるのだろう、という思いとは裏腹に、私は何も考えることができず日々をただ過ごしていた。長く母の人形として生きてきた私は考えるということができず、日々流されるままに過ごしていた。それに、結局何をしても自分は幸せになれない、そのような予感が私の中にはあった。

 そして父は死んだ。結局私は父と暮らすことについて、最後まで答えを出さなかった。一緒に暮らすとも、離れるとも答えを出すことなく、何も言わず最後まで父と過ごした。

 ある日、家を出る前、父は私に対して何かを言おうとしているようだった。私はそれに気づいていた。父の雰囲気が違う。どこか、父の目の中に泥のようなものがある気がして、私はひどく強い虫のしらせのようなものを感じていた。

 それでも私は何も言わず、何も言えず、仕事へ出て、家へ帰って、冷たくなっている父を見つけた。

 最後に父と話した朝。あの目をした父に対して、私に何かできたことがあったのか。あの時、一緒に暮らすにしても離れるにしても、私が意思表示をすることで何か変わったのではないか。

 そんなことを考えること自体が自分が楽になるための手段であって、私は一生苦しみ続けるべきではないか。それが、私に対する相応しい罰ではないか。

 それから今まで、私は何一つ答えを出すことができず、未だに父に囚われている。

 一人になった私は、少し荒れた。とはいえ不良になったのではない。厳密にいえば物事がどうでもよくなり、自暴自棄になった。自分を罰するように自分の体を粗末に扱ったこともあるし、馬鹿みたいなお金の使い方をしたこともある。

 結局すべてが空しくなり、私は人形だったころの私に戻った。

 仕事は、夜の仕事に落ち着いた。一時期明るかった髪も黒くして、真面目を装う外見となった。男の人の話を聞く仕事は簡単だった。すぐに「こうすればいい」という方程式を導き出して、私は、そつなく笑顔を張り付けて、仕事を回すようになった。

 それからしばらく経った。

 ある夜のことだ。別に特別な日ではなかった。私は、ある男性についた。

 はじめは甘ったれたやつだと思った。私を買いたいとかふざけたことを言う奴で、どこのボンボンかと思った。はっきり言って、あまり良い感情は持っていなかった。客としても、一番面倒な客だと思った。こんなところに来る奴は、適当に話して気持ちよくなって帰ってもらうのが一番楽で、良い。なのに、相手は喋る気があまり無いようだった。

 私を買うなんていうのも、適当にあしらえば良かった。だから反射で「百万」と言った。心底どうでもよかった。そして、私はその男に買われることになった。

 お金につられたわけではない。百万くらいなら、多少無茶をして稼いだこともある。私が引っかかったのは、彼の眼。心の中にざらりと残る、父が死ぬ間際にしていた、あの目。だから、放っておけなかった。

 でも、彼と接すると、私の笑顔がはがれてしまう。人形としての私が消えて、私の嫌な部分が浮き彫りになってしまう。

 彼はどうしようもなく普通の人だった。何かに悩んでいて、よくわからないが、私を誰かに重ねているのか、と思った。正直、自分を見ているようでどうしようもなく腹が立つ。

「私があんたに腹立つのはね、そうやって、わかったふりして意味深なこと私に投げて、一人でやっぱりわかったふりして、そのくせ突っ込んだところには足を踏み込まない。人はね、あんたを満足させる道具じゃないのよ」

 あぁ、何を言ってるんだろう、私。自分の嫌な、泥みたいなところが溢れてしまう。意味深なことを言って勝手に満足するのは、私も同じだ。誰にも助けを求めず前に進めないのは、私も同じだ。

「あんたが何に悩んでるのか知らないけどね、ぐちぐちぐちぐち、どうしようもないことなんじゃないのどうせ。」

 理性のコントロールが利かず、激情している自分が口をする言葉、それを冷静に聞いている自分がいた。それでも止められない。だってそれは私の本音で、それにきっと、それは私自身に対する、蓋をしていた感情だったから。

 私はこんなことを思っていたのか。私は幸せになりたかったんだ。最初は、私は誰かに罰して欲しかった。でももう、私の周りには誰も残っていなかった。誰も、私を罰してはくれなかった。

「何日か過ごしてわかったけどね、あんたは普通よ。どうしようもないほどに。だから今までの人生だって、あんたが歩んできた人生なら、別にそんな変なことしてきたわけでもないんでしょう、どうしようもなかったんでしょう。」

 でもどうしたらよかった? なんて、今まで何度も悩んだけれど、答えは出ていた。どうしようもなかったんだ。きっと、私は何百回人生をやっても、同じことをする。同じように、自分の意思など無いようにふるまい、父を追い詰めて、きっと、同じように今に至る。

「なら、あんたはこれからの、自分のことだけ考えなさい。私『も』死ぬのって、私と誰を重ねてるのか知らないけどね、人を勝手に殺すな、不幸にするな。私の人生は私の人生なのよ。あんたのためにあるんじゃない。あんたは自分の人生だけ考えてればいいの、わかった!?」

 いったい何様だあたしは。こんなことを言うつもりじゃなかった。盛大なブーメランを放って、それが帰ってきて、自分が嫌になる、張り裂けそうになる。それでも口をついて出てしまった。彼の前では、人形になれない私が、出てしまう。自分でも気づかないようにしていた私が、出てしまう。

 私が言い終えた後の彼の瞳は、もう私が知る父のそれではなくなっていた。彼はどこか晴れやかな顔をしていて、対して私はひどい顔をしているだろう、そう思った。私は気まずくなってセックスの続きを促した。

 私は彼を受け入れながら、浅ましい自分を見つめていた。認めざるを得ない。私は彼を救いたいのだろう。そして、彼を救うことで、同時に自分を救いたいのだ。

 お父さん、私は、幸せになってもいいのかなぁ。

 日の落ちた出雲市駅のホームで電車を待つ。

 出雲市駅のホームは二階に位置している。私は、反対側のホームの先に見える出雲の街並を眺めていた。

 父の死以降、私をこの地に縛るものは何もないはずだった。しかし、それでも私がこの出雲という街を離れなかったのは、私が父の死に囚われていたことの証左だ。

 私は罰を望んでいた。でも、永遠に罰せられない自分を盾にして、自分の殻の中で日々を送っていた。

 誰が見たって私は私の人生を歩むべきだし、多分父だってそう思うだろう。父は最後まで父だった。だからわかる。一緒に過ごした時間は短くても、父が今の私を見れば憂いの感情を抱く。それは確信を持って言える。それでも私が前に進めなかったのは、多分、前に進む勇気が無かったから。人形でいることに慣れてしまった私は、それが楽な生き方だと知っていたから。でも、私は気づいてしまったから。私は幸せになりたいから、幸せになるんだ。だから……

「だから、さようなら」

 到着のベルに続いて、ベージュとワインレッドの車体がゆっくりとホームへ入ってくる。

 そういえば、彼から残りの五十万円を貰っていない、貰わないといけない。別にお金のことなどどうでもいいけれど、それとこれとは話が別。だから、彼が寝ている間に私が彼の社員証を盗み見たことだって、許される。彼にはもう五十万円払ってもらわないといけなかったんだから、それくらいしても良かったでしょう? なんて、意味のない正当化をして。いったい誰に言い訳してるのやら。私は苦笑いしつつ、電車に乗り込む。

 電車に入った瞬間、暖房が私を包み込む。雪こそ降ってはいないがもう冬と言ってもいい今の時期、とっくの前に日の入りはしていて、窓の向こうには若干欠けた月がよく見える。そういえば、今日は日中も晴れていたな、なんて思いつつ、スマートフォンを開く。

「明日の東京も晴天、か」

 振動と共に景色が流れ出して五分ほど。川を一つ越えると、生まれ育った出雲の街は見る見るうちに小さくなる。

 一息ついて、左腕、少し無骨なデザインの時計に目をやる。時刻は十九時を過ぎたあたり。

 東京に着くまでの約十二時間、B寝台のベッドに横になった私を乗せて、サンライズ出雲は行く。

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