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死刑の是非についての考察

 秋葉原無差別殺傷事件の犯人である加藤智大死刑囚の死刑が執行された。彼の生育環境は壮絶であったという。被害者にしてみれば加害者が犯罪を犯した背景などどうでも良いだろうとは思うが、このような事件を二度と繰り返さないためにも背景を知ることは重要だと思う。

 安倍元首相襲撃事件の犯人も、加藤智大と同じように壮絶な経験をした。もちろんそれが犯罪の免罪符になることは絶対にないのだが、背景を知ることは同じように必要である。

 話が逸れたが、今回は死刑の是非について述べていこうと思う。


なぜ死刑が行われるのか

 そもそも、なぜ死刑が行われるのか。wikipediaの記事であるが、死刑の歴史についてまとめられている。

前近代における死刑は、多様な犯罪に適用される刑罰であったことから、単に「生命を奪う」ということのみを目的とするものではなく、身体刑の要素も含まれた複数の執行方法が採用されていることが一般的であった。

 元々は単なる身体刑(死亡する可能性が高いが)の一つであり、軽犯罪にもこの刑が執行されていた。重犯罪に関しては見た目を残酷にしたり苦痛を増やしたりしていたようである。それが近現代になり民主主義の考え方が浸透したことで、死刑を単に死に至らせるための刑罰として苦痛の少ない方法を取るようになった。

 現代では死刑は極刑であり、主に殺人に対する刑罰として執行される。これが非人道的な刑罰であるとして、死刑廃止条約(正式名は「死刑廃止を目指す市民的及び政治的権利に関する国際的規約第2選択議定書」)が国連で規定されたが、日本は批准していない

 死刑を執行すること、死刑を廃止すること、双方に問題はあるので、順番に見ていく。まずは死刑執行の問題点から。


【死刑執行の問題点】

冤罪で取り返しがつかない

 死刑執行で最も危惧されているのはこれであろう。死刑が執行された後に冤罪が判明したとしてももう遅い。死刑囚の命はもう二度と戻っては来ないのだから。

 有名な冤罪事件で足利事件があるが、容疑者とされた菅谷利和氏は17年半も勾留されていたが、無罪となったところでその失われた時間が戻ってくるわけではない。まして死刑が執行されてしまえば、「間違いでした」では済まされないのだ。

 また、冤罪が起きる原因にも大きな問題がある。

 上記の記事は冤罪で死刑が執行された事件のものだが、冤罪が起きた原因は杜撰な捜査や自白の強要等であった。先に述べた足利事件もDNA鑑定の精度が不十分だったことや長時間の勾留と長い取り調べで自白を強要されたことにより冤罪が生まれてしまった。仮に捜査が不十分だったり取り調べが不適切だったとしても、冤罪被害者が既に亡くなってしまえば死人に口なしである。彼らは自らの無念を語ることさえ許されないのだ。


更生の機会が失われる

 死刑が執行されると、犯人がどれほど反省して被害者に謝罪したいと願ったとしても、その機会は永遠に失われる

 特に、身勝手な理由(遊ぶ金が欲しかったから等)ではなく犯罪に至るまでの最もな(というと語弊があるが)理由がある場合、情状酌量を求められることもあるだろう。
 犯罪を犯したら即死刑では、我々には間違いを正すことは二度とできないことを意味する。


【死刑廃止の問題点】

被害者の心情を考えられていない

 死刑廃止反対派の意見で最も重大なのはこれであろう。例えば、何人も殺害した殺人犯(ここでは冤罪の可能性は考えない)が終身刑となったとする。その殺人犯は罪を悔い改め、更生したとする。しかし、被害者遺族にとってはどうだろうか。被害者はもう亡くなっているのに加害者は生きている。これがどれほど被害者遺族の心を乱すことだろう。

 話は少し変わるが、東野圭吾の作品で「さまよう刃」というものがある。これは娘を蹂躙されて殺害された父親が犯人へ復讐するというものだが、犯人は少年で少年法に守られている。つまり残酷な殺人であっても死刑にはならず、少年院かどこかに少し勾留するだけで済む。もしかしたら保護観察処分で少年院にさえ入らないかもしれない。自分が被害者や被害者遺族だったら、死刑廃止に何としても反対したくなるかもしれない


勾留に莫大な税金がかかる

 死刑を廃止するとなると、極刑は恐らく終身刑(日本では導入されていないが)辺りになるだろうか。いつから勾留されるかによるだろうが、莫大な税金が使われることが予測される。その税金を払うのはもちろん囚人自身ではない。一般の国民である。「なぜ犯罪者なんかのために税金を払わねばならないのだ」と理不尽に思う人は必ず出てくるだろう。


個人的意見

 犯罪はもちろん許されないことであり、被害者の心情も考えるべきではある。とはいえ現代の刑罰の目的は再発防止の方に重きが置かれているため、更生ももちろん必要であろう。

 また、いくら被害者が傷ついているとは言えども、刑罰は被害者の鬱憤を晴らすためのものではなく、加害者が犯罪を繰り返さないように、また他の人が犯罪を犯さないようにという目的で行われている

 と、ここまで述べたが私はやはり死刑廃止には反対である。心情的に被害者の無念を晴らしたいというのもあるが、犯罪を減らすという目的でも死刑は必要だと考える。というのは、たとえ殺人を犯しても自分が死ぬことはないと分かっていれば、犯罪への認識自体が軽くなるだろうということだ。「人殺しても死刑にならないんだから大丈夫」と考えて犯罪を軽く考える人が出てくる。また、暴論であるが、再発防止と言っても加害者が亡くなってしまえば再発も起こりようがない。その上死刑によって犯罪というものの重さを感じさせることで犯罪も減らせるかもしれない。唯一問題があるとすれば、「自分は死んでもどうでも良い」と考えるいわゆる「無敵の人」だが、彼らは終身刑であろうと死刑であろうと犯罪を犯す人は犯すだろう。無敵の人への対策は死刑廃止とは別で考えるべきだ。

 以上、個人的意見であるが、死刑廃止についての考察はここで終えるものとする。

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