美しさは、年を追うごとに磨かれていく
美しい瞳になるためには人の美点を探しなさい。
これはオードリー・ヘップバーンが愛したサム・レヴェンソンの詩の一部。
私は以前ミスユニバースのお仕事をさせて頂いてから「美」について意識するようになった。クライアントさんも女性が増えて、年齢もバラバラで外見もぜんぜん違うけれど、みんな綺麗だなと感じる。だけど本人たちは自分を綺麗だとは思っていなかったり。そんな時、美ってなんなんだろう?と考える。
エステや美容グッズ、整形も含めて、今以上に美しくなれるように、女性はいつも美を追求し続けている。
血のにじむようなその努力は美しいと思うけれど、美の感じ方は人それぞれ違うものだ。好みも違えばタイプも違う。美白至上主義の人もいれば、焼けた肌が美しいと感じる人もいる。文化や時代が違えば、美しさの定義は変わる。
そう考えた時に、「美」とは見た目ではない部分に宿るのではないかと思ったりする。目を惹きつける美しい人というのは、ただ見た目が美しいというわけではなかったりするからだ。そうゆう人は見た目以上に、美しい後ろ姿の人、美しい仕草の人、美しい瞳の人。そのような雰囲気を持った人だったりする。
後ろ姿も、ふとした仕草も瞳にも共通するのは、自分では意識できない部分だということ。肌の色やメイクやファッションやスタイルなどは全て意識が出来る部分だから、ある意味自分で造り込むことが出来る。
努力している姿勢は美しいし、外見はとてもわかりやすい「美」だけど、人から滲み出てくる魅力というのは、きっと
本人も気づいていない部分
本人が見えていないところ
に宿るものなんじゃないかと思う。
たくさんの人をカウンセリングし観察してきた私から見ると、歩き方に性格が出ていたり、姿勢や仕草で人間性がわかったりするもの。外見は内面に通じている。
オードリーが好きな詩のように、『美しい瞳になるには人の美点を探しなさい』というのは、結局のところその人の生き方が滲み出る魅力と「美」に繋がっているんだと思う。
年をとって、顔にたくさんシワがあっても、綺麗な人はいつまでも美しい。美しい後ろ姿や仕草、美しい瞳になれるように、年を追うごとに磨かれていくような生き方をしていきたいと思う。
魅力的な唇であるためには、美しい言葉を使いなさい。
愛らしい瞳であるためには、他人の美点を探しなさい。
スリムな体であるためには、飢えた人々と食べ物を分かち合いなさい。
豊かな髪であるためには、一日に一度子供の指で梳いてもらいなさい。
美しい身のこなしのためには、決してひとりで歩むことがないと知ることです。
物は壊れれば復元できませんが、人は転べば立ち上がり、失敗すればやり直し、挫折すれば再起し、間違えれば矯正し、何度でも再出発することができます。
誰も決して見捨ててはいけません。
人生に迷い、助けて欲しいとき、いつもあなたの手のちょっと先に助けてくれる手がさしのべられていることを、忘れないで下さい。
年をとると、人は自分にふたつの手があることに気づきます。
ひとつの手は、自分自身を助けるため、もうひとつの手は他者を助けるために。
女性の美しさは 身にまとう服にあるのではなく、その容姿でもなく、髪を梳くしぐさにあるのでもありません。
女性の美しさは、その人の瞳の奥にあるはずです。
そこは心の入り口であり、愛情のやどる場所でもあるからです。
女性の美しさは、顔のほくろなどに影響されるものではなく、その本当の美しさは その人の精神に反映されるものなのです。
それは心のこもった思いやりの気持ちであり、時として見せる情熱であり、その美しさは、年を追うごとに磨かれていくものなのです。
– サム・レヴェンソン
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