見出し画像

エグさのわかりやすさ

今更ではあるが、「ミッドサマー」を観た。公開当初、「怖い映画なのに、ビジュアルがめちゃくちゃハッピー」というバグったポスターやTwitterの宣伝のおかげなのか、カルチャー系じゃないポップスな人たちも観に行って撃沈していたような覚えがある。
わたしはというと、ホラー映画こわいしなあ…と思いつつ気になってはいたものの、鑑賞済みの友人から「顔面がぐちゃぐちゃになるのが大丈夫ならいけると思う」と言われて、高校生の頃にみた「スーサイドスクワット」で巨大なレンジにつっこまれた人間が爆発するシーンがトラウマだった私は、一旦遠慮していたのだった。

シェアハウスのリビングにおいてある大きなモニターには、ネトフリ・アマプラはもちろん、ディズニープラスやなんやかんやと配信アプリが入っていて、住民が見ているドラマをみんなで流れで鑑賞してハマる、といったことがよくある。ホラー映画が大好き!という人はいないが、なんだかんだ怖いもの見たさでみんなできゃあきゃあみるのはできるひとも多いので、犬鳴村の恐怖回避バージョンをみたりもしていた。これなら見れるかも…と、満を持してミッドサマーの鑑賞会を実施したのであった。

結論からいうと、これはミッドサマーの考察noteではない。やったら絶対面白いなという感触はあったのだが、大学を卒業して4年、脳みそがさび付いている感覚がすごい…。どうやってテーマを設定していたんだっけ?というところからたどり直しをしないとだめな状況だった(書きながら徐々に思い出してきたが、確かわたしは期末にレポートのテーマが出たタイミングで、手持ちの履修済みコンテンツの中からテーマに合いそうなものをひっぱりだしてきていたような気がする)。むしろ、このnoteは、改めて自分の趣味嗜好と、勉強頑張りたいな、という意思表示のためのものだ。

ミッドサマーがいいなと思ったのは、たぶん「常軌を逸した行動の数々が、その人たちの理性の範疇の中で行われていたこと」。つまり、「完全に理性を失ったパニック状態の中で起きた惨状」ではなくて、「きちんと説明できるロジックの中で準備され、実行されていること」である。その証拠に、外部の人間である主人公をはじめとするアメリカ人たちが不安に駆られ、発狂しそうになるたびに「これは僕たちにとって大事なものだ」「これにはこういう意味がある」と丁寧に説明される。私が苦手なホラーは、理不尽に不可解な未知のものが人々を翻弄するタイプのものだが、よく考えたらサイコホラーに分類される「ブラックスワン」とかは普通に観れていた。たぶん、私の中である程度何かの秩序に則っていれば面白がれるのだと思う。考察するしないは別として、考察しがいのある映画はそれだけでわくわくするし。

人間の中にある汚い感情を見せてくれたり、自分が思っても見なかった心の動かされ方を促してくれるコンテンツというのは、それだけで稀有なものだと思う。ラブストーリーも、エモーショナルな映画も好きだけど、もしかしたら同じくらいそういう意地の悪いコンテンツが好きなのかもしれない、と最近気づいた(アリアスターも、ミッドサマー公開時に「映画を観た皆さんにただただ不安になってほしいのです」とコメントを残しているらしい)。

こういう意地の悪い作品が好きなのかもしれない、という予兆はあった。友人に誘われた、市原佐都子が率いる「Q」の「バッコスの信女」が気に入っている。見たのは2020年の秋ごろだが、いまだにたまに頭の中でふと「あなたはあなたの欲望が誰も傷つけることのない安心安全なものだと言い切れますか」という問いかけを反芻するときがある。
敢えて観たくないものを、敢えて知りたくないことを、差し出されて目をそらせない仄暗い経験は、インフォデミックな現代社会でどれだけ得難いことだろうか?牛のように何度も何度も反芻して解釈して咀嚼できる問いを持っているということは、ざらりとした引っかかりを持っていることは、つるりとした生活よりもよっぽど意味のあるものではないか?

それともこうやって自傷的なものを好むのは、痛々しいだろうか?

何と表現するのが適切なのかいまだにわからないのだけど、わたしが自分自身に感じている、自分の不確かさ(自分自身の輪郭がぼやけている、ということと、他者から認識されている自分の不確かさの両方)に、こういう意地の悪いコンテンツは、「人間とはこういうものだ」と示しているように思える。というかリアルもフィクションもほんとはおんなじなんだと思うけど、「怖い作品」だとわかりやすいんだろうな。こういうのばっかり見てると麻痺ちゃうのかな感受性…。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?