猪木が歩んだ『道』とは


今から四半世紀、25年前の今日(4.4)
一人のレスラーがリングを去った.
アントニオ猪木である。

その最後の雄姿を見届けるべく東京ドームに詰めかけた観衆、7万人。
これは、いまだに破られていない観客動員数である。
https://njpwworld.com/p/s_series_00151_1_01

最後の相手を弟子の小川直也ではなく、オープンフィンガーをつけ、MMA(当時はアルティメットと呼ばれてたか)でも実績のあるドンフライにするところに猪木らしさを感じさせ、
1976年「世紀の一戦」を繰り広げた元ボクシング世界王者・モハメドアリが、後年患ったアルツハイマー病で満足に動けない中、戦友の為に試合前には聖火を灯し(直近のアトランタ五輪でアリが聖火点灯したことの再現)試合後に花束を贈呈するなど感動的なシーンも見られ、
新日本、猪木プロレスの全盛期に一役買った金曜8時『ワールドプロレスリング』の実況を務めた古舘伊知郎による詩。
「闘魂は連鎖する」「猪木から自立しなければならない」etc.
今でもファンの脳裏に残る言葉で猪木引退に華を添えた。
などなど、多くの見どころがある猪木引退試合だが、今回のテーマは猪木が最後に披露した『道』についてだ。


猪木最後のマイク『道』に隠された思い


試合後ガウンに着替え、花道で披露されたこの『道』。
一休さんでおなじみ一休宗純からの引用という説があるが、これほどアントニオ猪木のレスラー人生を表しているものはない。

家族で出稼ぎに行ったブラジルで師匠力道山との奇跡的な出会い。
日本プロレス入門後、力道山の付き人として壮絶なシゴキに耐え、これからの時に師匠が突然の死。死後、看板レスラーの一人になるもクーデターの疑惑で団体を追われ興した新日本プロレス。
テレビ中継もつかず、チケットを自ら手売りする日々。
人気に火がついたインドの猛虎タイガージェットシンとの抗争。
ボクシング世界王者との一戦。リングサイドで銃を構える兵隊に囲まれた中でパキスタンの英雄との死闘。
IWGP構想、巌流島決戦、北朝鮮でプロレス興行。
規模はリングにとどまらず、レスラー初の国会議員として、戦争で人質にとられた日本人を現地まで赴いたイラク人質解放。

まさに「危ぶめば道はなし」「迷わず行けよ」といった道のりである。
確かにアントニオ猪木にふさわしい、しかしこの『道』には隠されたテーマがあると私は考える。

それは冒頭に「拝啓 ジャイアント馬場様」の一文が添えられるのではないかと。
この『道』はその日詰めかけた7万人のファンに対してではなく、馬場に対してのメッセージ、アンサーではないかと。

ジャイアント馬場。全日本プロレスを興したレスラーで、元読売巨人軍のピッチャー、腕のケガで野球を断念した後に選んだプロレスの世界。
その同日に入門したのが何を隠そう猪木寛至、アントニオ猪木である。
2メートルを超える体躯はプロレスにもってこいの才能であった。
猪木が力道山の付き人として使われているなか、馬場はプロレス界最大規模のアメリカでトップヒールババザジャイアント、ショーヘイババとして大活躍。(大谷翔平以前にアメリカを席巻した「ショーヘイ」がいたのだ。)
人気絶頂の中、師匠力道山の訃報。馬場は日本帰国。
猪木が新日本を興してから半年、馬場は全日本プロレスを旗揚げ。
アメリカに顔が利く馬場は米マット界最大のネットワークNWAから豪華外国人レスラーを毎シリーズ呼び、華やかなリングをつくりあげた。(呼ぶだけならまだしも猪木の新日には選手を送ってはならないとしたところに馬場の怖さがある。)
そんな全日マットは王道と呼ばれた。

まさに猪木とは対照的なキャリア。
裏を返せば、馬場という存在があったがために猪木は数多くの異常な闘いに繰り出したのではないか。
「馬場さん、あなたがいたせいで(おかげで)、私はこんなに危うい”道”を歩んできました。」と。
そんなメッセージを私は感じる。
馬場なくして猪木は語れない。

一方で晩年、二人が顔を合わせたときに馬場が「お前はいいよな」と猪木に言ったというエピソードもあり、馬場視点からみる対アントニオ猪木も面白そうだなと。
これはまた機会をみつけて記事にしたい。

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