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1-4: The Sky Full of Stars

星を見にいく、という行為はいつぶりだろう。
スニーカーを履きながら、私は記憶をたぐった。

政令指定都市に生まれ育ち、大都市圏でしか生活したことのない私にとって、天体観測とはプラネタリウムで学ぶものでしかなかった。

最後にきちんと星を見たのは、ロサンゼルスを旅した時だった。グリフィス展望台に行ったのだ。けれど町の灯が眩しすぎて、ほんものの星は数えるほどしか見えなかった。夜景のほうが印象に残っている。
考えてみれば、大自然の中で星を見るという行為に、私は慣れていなかった。天体観測なんて、小学校のキャンプ以来じゃないだろうか?

パーカを羽織り、貴重品だけを持って部屋を出る。大半の宿泊客はキッチンエリアや、バーの方に集まっているようだった。賑やかなさざめきとおいしそうな匂いとがただよってくる。

iPhoneのライトに懐中電灯としてじゅうぶんな明るさがあることを確かめ、私はさきほどのルックアウトを目指した。ハエたちはすっかり息を潜めている。ふたたび、ユーカリの匂いが鼻をかすめた。

フットライトに照らされた小道を上ってゆく。星を見にくる人がいることを想定しているのだろう、展望台はほとんど真っ暗だった。とはいえ帰り道を照らす灯があるおかげで、危険を感じるほどの暗闇ではない。

ルックアウトには、誰もいなかった。日没時に座っていたベンチを探し出して座る。ひと呼吸おいて、iPhoneのライトを消した。暗幕のようにふわりと闇が視界をくるむ。しばらく靴があるだろう足の先を見つめた。自分の太ももが白っぽくぼんやり見えるが、足先までは見えなかった。闇とは怖いものなのだと、なぜかその時になって初めて感じた。助けを求めるように、私はあごを45度、上にもちあげた。

目が慣れるまでに少し時間がかかった。空は漆黒ではなく、とても深くて濃い藍色のように見えた。

その中に、砂つぶのような光があった。ひとつ、そしてその横にまたひとつ。光を数えるうちに、降るような星空の下にいる自分に気がついた。息をのんだ。

天の川を肉眼で見たのは始めてだった。
目の前が、すべて星だった。体と意識とがふわりと浮いて、宇宙に放り込まれていた。

大地と空は真っ暗闇の中で溶け合い、座標を失った私は混乱した。iPhoneで天球図を調べようとしたものの、ブルーライトを見てしまうと闇に目が慣れるまで再び時間がかかるということに気づいてショルダーバッグに戻した。南半球の星座なんて知るはずもない。サザンクロスの見つけ方だけでも事前に調べてくればよかった、と私は後悔した。

自分という人間は、何も知らない、生きる力のない都会っ子なのだと思い知らされて私は急に心細くなった。天の川を頭上に戴いたことなんて、今までなかったのだ。いや、正しくは、毎晩それは私の頭の上にあった。ただ見えなかっただけ、見える場所に行かなかっただけだ。

もう一度夜空に目をこらす。空が果てしなく広くて、私はとほうにくれた。どこを見ればいいのか、わからないのだ。見渡す限り本当に何にもない。
圧倒的なこの夜空と対峙するという状況に、私はうろたえていた。
あらゆるところから遠く離れたこのウルルという地の、そのまた人気のないこの展望台で、私は夜空を眺めているのだ。ひとりで。

ひとり。

頭にうかんだその言葉は、高揚していた私の心をほんの少しだけ曇らせた。思い出せるかぎり、私はいつだってひとりだった。公園で月を眺めていた、あのみじめな夜が脳裏をよぎった。

それでも、目の前の星空をただ眺めるというのは、とほうもない贅沢のように思えた。

––––ちがう。ここは別の場所。あそこから逃げ出したくて、ここへ来たんだから。

私は深呼吸し、寂しさよりも静寂さを感じようとつとめた。自分がひとりきりで誰もいないこの場所で、大自然を感じていられることに、ささやかな達成感を感じていた。夜風をほほに感じると、心は穏やかさを取り戻した。

––––私と宇宙の間には、今隔てるものがなにもないんだな。

行ける限り最も遠い場所へやって来れたという確信があった。大気とその上のオゾン層や成層圏を突き抜けて、自分の存在を超えた大きな何かと今直接つながっているという感覚があった。それは、日本の都会では得られなかった、しずかな驚きだった。この空間を独り占めできることに、私は深い喜びを覚えた。とんでもなく大きなプレゼントをもらったようだった。

その時、誰かが丘を上ってくる気配があった。

「やっぱりいた」

I knew you are here. 声のした方を向くと、大きな男のシルエットが見えた。顔が見えなくとも誰だかわかった。ジョージだ。

「もちろん。だってそのために来たんだもの」

私は微笑んだ。

「隣に座ってもいいかな?」

彼は礼儀正しく訊ねた。

「もちろん」

私は少し身じろぎして、ベンチのスペースを彼のために開けた。Thank you、と言いながら彼はどっかりと腰を下ろした。

暗い場所でよく知らない男性と二人っきりでいるという状況に、私の警戒心が一瞬アラートを鳴らした。空港の保安検査場を通り抜ける時のように、動物的な勘で自分のいるシチュエーションをスキャンする。しかし、ジョージを見た瞬間に、そんな心配は無用だとわかった。夜空を見上げている彼は、野に放たれた牧羊犬のような笑顔を浮かべていた。

「Que hermosa…」
「へるもさ?」
「スペイン語だよ。なんて綺麗なんだろう、って」

ジョージは言った。穏やかな低い声だった。

「本当に。こんな星、初めて見た。空が広すぎてわけがわからなくなっちゃった」

私は言った。ジョージは笑った。

「簡単だよ。サザンクロスを見つければ良い」

私が望んでいたものを、この人がくれるという。その僥倖に私の胸はおどった。

「どうやって?」

ジョージは太い指を掲げて言った。

「天の川が見えるだろう? 南の空に、二つ並んだ明るい星がある。ポインターと呼ばれるものだ。その二つを結んだ延長線上にある星をつなげれば、十字になる。見えるかな?」

私はジョージの指す方向に目をこらした。ポインターと呼ばれる星らしきものはすぐにわかった。青白く輝く、ひときわ大きな星たちだ。

しかし、どの星をつなげれば十字になるのかはよくわからなかった。

「気をつけて。『ニセ十字』というよく似た星座もあるから」

ジョージはからかうように言った。

「ええっ、そんなのがあるの?」

私は混乱した。

「そうだよ。ニセ十字の方が大きくてわかりやすいんだ。だからたいていの人は、『見つけた!』てなってしまうんだよね。ガイドでもいいかげんなことをいう人もいるし」

「じゃあ、もしかしてあれはニセ十字?」

私はあたりをつけていた大きな十字を指差した。ジョージは私の指に顔をよせ、その指す方向を見た。

「あぁ、そうだね。あれはニセモノだ」

わはは、と低く笑う。

「本物はね、十字の右下にホクロのように小さな星がくっついているんだ。それが見分けるポイントなんだよ」

私はもう一度目を凝らした。先ほど見ていたニセ十字よりももっとずっと近くに、小さな十字が見えた。ジョージが言ったように、4つの星を結んだ中心の少し横に、小さな星がある。

あれか。
じわりとした喜びに口角が上がった。嬉しくて、こっそりと下唇を噛む。
じっと目をこらすと、もうそれはずっと前からそこにあったかのように、はっきりと認識できるものになっていた。

「見つけた」

「ほらね、簡単だったでしょう?」

ジョージは言った。

「うん、ありがとう」

空を見上げたまま、私は答えた。風の音と、虫の声。

「…来てよかった。ここにこうして来ることが出来て、本当に幸せだと思う」

「そうだね」

ジョージはうなずいた。彼の安心感につられて、私は言葉を続けた。自分の思っていることを、誰かに聞いて欲しかった。

「でもね、幸せなのに、どこか申し訳ないような気がするの。そういうふうに思うことはない? 自分ひとりだけでこの幸せを独り占めしていいんだろうか、って。世界には大小たくさんの悲劇があるでしょう? みんな、何かに苦しんでいる。そんな中で自分が、やりたいことができる。こんな幸福を味わえるのは本当にラッキーなんだなって。私だけ、自分だけが幸せになっていいんだろうか?って思う」

「それはよかったね」

That’s good. グーッド、と音を強調して彼は言った。

「そんなふうに考えられる人は多くないよ。みんなここへきて、『わぁ、きれい』と感動して、ソーシャルメディアにアップするためだけの写真を撮って、それで終わりという人がほとんどだ。君は、本当に大切なものをすくい取る力があるんだね」

心の中に小さな光が灯ったようだった。褒められた嬉しさ、共感してもらえた喜び、そして、同じ種類の価値観を共有する人と出会えた安心感だった。

暗闇の中で私は頬をゆるめた。

「ありがとう。私、ここへくるまでにいろいろ悩んだから」

「何を悩むことがあるっていうんだい? あぁ、わかった。『ウルルもいいけど、パリにも行きたいわ。ニューヨークも悪くないわね』とか、そういうことだね?」

ジョージはおどけて言った。私は笑って答えた。

「そうだったらいいんだけど。そうじゃなくて…。いや、似たような悩みなのかな。自分がどこへ行けばいいのかわからなくて、でもどこかには行きたかった。自分がいる場所ではない、どこかへ。けど、それが正しいことなのか、それとも単なる身の程知らずのワガママなのか、わからなかったの」

ウルルの闇の中に、自分の声が吸い込まれていくのを聞くのは、不思議な気分だった。

「私、あと2日で32歳になるの」
「たった32歳!」
ジョージは大げさにため息をついた。
「人生始まったばかりじゃないか」
私は肩をすくめた。

「わからない。オーストラリアではどうか知らないけれど、私の国では30歳って言ったらもう立派な大人だから、ちゃんとしなきゃってすごくプレッシャーだった。コミットできる仕事を見つけて、伴侶を見つけて、ローンを組んで、年金を払って。でもそれをしたくなかったの。どうしてもそれをしたいと思えなかった。だから旅に出た。30歳を過ぎて、本当に自分がどう生きていきたいのかわからないなんてバカみたいな話だけど、でも試さないままでいることの方がもっと怖かった。今でもまだわからない。けど、今ここに来られて、今ここで星を見られて、本当にラッキーだと思う。私はたまたま自分に降ってきたこの幸運を、他の誰かも幸せにするために使っていきたい。この気持ちを忘れたくない」

「素敵だね」

ジョージが微笑むのがわかった。
バーでライブ演奏が始まった。風にのって、かすかに聞こえてくる音楽。

そこにどれくらいそうしていたのかは覚えていない。私はジョージにおやすみの挨拶を述べると部屋に戻った。身体中に星が詰め込まれたような夜だった。

(Photo by <a href="https://unsplash.com/@stevenwei?utm_source=unsplash&utm_medium=referral&utm_content=creditCopyText">Steven Wei</a> on <a href="https://unsplash.com/s/photos/uluru-star?utm_source=unsplash&utm_medium=referral&utm_content=creditCopyText">Unsplash</a>)

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