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最果ての街並みを夢に見る

小さい頃は、夜景を見ることが好きではありませんでした。

ただの人工物の光を見てな〜にが面白いんだと、夜景を見てロマンチック!と色めく人々のことを、なんならちょっとバカにしていました。それより上、上!空を見上げてみなよと。夜景の光に押されながら、静かに瞬く星の光のほうがよっぽど見るに値するじゃないかと。

そして観測天文学を志して、一般の人じゃ人生でそう何度も見るものでもないような星空、たとえば天の川の光だけで走り回れるほど明るい星空とか、南半球のひっくり返った星空、六本木ヒルズの屋上から見る星空なんかを見てきましたが、大人になればなるほど、夜景を見ることが好きになっています。

六本木ヒルズで行われる星空観望会のスタッフとして時々参加させてもらうようになって数年。いつも屋上にのぼると、まずは星よりも夜景に目を奪われてしまいます。いつも「あれはなんですか」と聞かれる代々木の奇妙なビル。時々花火を見下ろすことができるディズニーランド。今日もまっすぐ光っている東京タワー。見渡す限りの人工物。人工物。人工物。ただ、海があって、島ができて、緑が茂っていたはずの東京の街を、これだけの人工物で埋め尽くしてきた人類の歴史に、思いを馳せずにはいられません。

そんな時、私はちょっと目を閉じて、頭の中でとある妄想を思い描きます。
「これが、どこか宇宙の最果ての、誰も知らない惑星の景色だったら。」

そしてふたたび目を開くと、目にうつる夜景は全く別の意味を持ちます。
ずいぶん大きな建造物。このほしに住むのは大きな生物なのかしら。こんなに光で溢れているということは、可視光を感知して、利用しているのかしら。この風景の中にいったいどれだけの数の生物が住んでいるのかしら。これほど人工物で埋め尽くすまでに、どれだけの時間がかかったのかしら。あの真っ赤な塔は何のためのものかしら。

もしくはこんな妄想も可能です。
「私が長い宇宙旅行の果てについに地球にたどり着いた宇宙人で、初めて地球の景色を見ているとしたら。」

まぁでも、宇宙人もだいたいおんなじようなことを考えると思います。
すゴイ!こノ星ハ人工物で埋め尽くサれてイる!あノ真ッ赤な塔ハ何ノためノもノかしラ。

私はこれを「宇宙の目で地球を見る」と呼んでいるんですが、こうやってちょっと脳内で宇宙に想いを馳せた時に、なんだか身の回りの世界がこれまでと違って見えるような感覚、誰しも一度は感じたことがあるんじゃないかなと思います。世界を俯瞰で見るというか、宇宙に浮かんで見るというか。

私が太陽系以外の星を回る惑星=「系外惑星」の研究に興味を持った、一番最初のきっかけも、そんなところにあったような気がします。

1995年、私が1歳の時にはじめて(※ふつうの星=主系列星を回る惑星の中で)ひとつめが発見された系外惑星は、今となっては4000個を超えています。もはや「系外惑星は現在◯◯◯◯個見つかっています」ってわざわざ書くのもナンセンスに感じるくらい、その数は日に日に増えていっています。

系外惑星、という言葉を私が知ったのは何歳の頃だったか覚えていませんが、系外惑星時代に生まれ育った私は、夜空の星々にも当然惑星があると思って生きてきました。そして当然のように、その中のいくつかには生命がいるだろうと。宇宙にこんなに星があるんだから、地球のような惑星が他に無いと思う方が不思議だと。いや知的生命体とまでは言わなくても、ミジンコくらいの生物ならば。今はまだ大航海時代の前の人類のように、すぐそこの、海の向こうに生命がいることにも気づいていないだけで、もう生命は宇宙のいたるところにいるはずで。私たちが、地球外生命の発見という、時代の目撃者になるのだ!と、…そう思ってアストロバイオロジーの扉を叩きました。

しかしアストロバイオロジーの研究が進み、私自身、それを追いかけるようにして勉強して、宇宙における生命のこと、系外惑星のことを知れば知るほど、「そんな簡単な話じゃないのかもなぁぁ〜…」と弱々しい声で言いたくなります。

いや、世のアストロバイオロジー研究自体は、どんどん前に進んでいるのです。太陽系の他の惑星や衛星についての探査を進め、太陽系外にさまざまな惑星を発見しその性質を調べ、地球の生物の多様な生き方を調べることで「生命とは何か」という問い自体に深く迫り、私たちは確実に、宇宙における生命という謎の解明に近づいていってはいます。

私が難しいなぁと感じるのは、いざ人類に、「地球外生命を発見した!」と大きな声で言える日は来るのかなぁ、というところです。

今のところ、系外惑星において私たちが観測できそうな「生命のシグナル」として、一番有力なのは惑星大気の成分です。ごくごく微弱な惑星のシグナルの、さらにごくごく微弱な大気のシグナルというものを観測するのですが、その解析から、大気中に相当量の酸素やオゾンがあると分かれば、それが生命のいる証拠になるかもしれない、と考えられています。というのも、検出できるほど大量の酸素分子を生み出せるシステムとしてもっともあり得るのが、生物による光合成だからです。

来たるクリスマスイブイブイブ、12月22日にジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)というどでかい宇宙望遠鏡が打ち上がる予定(あくまで予定)なのですが、それで惑星大気を長い時間かけて観測すれば、きっと、おそらく、惑星大気中の酸素やオゾンを検出することはできると考えられています。万が一事前には予測し得なかった難しさがあってJWSTでは無理だったとしても、その次、その次の世代の望遠鏡であれば、いつかきっと。

とはいえ、おっ、これは酸素のシグナルっぽいぞ、というものが見つかったとして、それで「生命を見つけました!!!!!」と言えるかというと、それはまだまだ遠い話です。

まずは、本当に酸素を見つけたのかどうか。誤差の範囲内じゃないのか?観測装置の影響による偽物のシグナルではないのか?他の大気成分や星からのシグナルで本当に説明はつかないのか?ありとあらゆる手段を使って、別の可能性を調べる必要があります。たとえ99.9%の確率で酸素を発見したとして、それが生命活動由来の酸素であるかと言われれば、それはまた別の議論が必要です。惑星内の無機的な化学反応など、他のシステムで酸素が大量発生することは本当にないのか?そもそも、光合成する存在だからって生命と定義していいのか?生命ってなんなのか?

だから科学者は、本当は心の中では確信していたとしても、「生命っぽいシグナルをみつけたかもしれません、〇%の確率でこれは生命のシグナルだと思われますが、他にもこんなシナリオの可能性も排除はできません。今後のさらなる観測にご期待ください」みたいな、まどろっこしい言い方しかできないわけです。

実際のところ、宇宙人がUFOにのって目の前に現れて、「やぁ」と言うまで、宇宙に生物がいる!とは言えないと思います。それでも信じられない人はたくさんいるでしょうが…。

ところで系外惑星に限らず、太陽系内の惑星や衛星の探査でも、生命を発見できる可能性はあります(その方が可能性高いかも)。それでもやっぱり、もしそれで「宇宙生命のようなもの」を見つけたとしたら、地球の微生物が混入したんじゃないのか?これは本当に生命なのか?と議論が渦巻くはずです。科学はそういう「ありとあらゆる可能性」を一つ一つ検証していく営みです。生命のシグナルを発見したかもしれません!という論文が一本出たとして、諸手を挙げてやった〜やった〜とは言えないわけです。うーん、厳しい。

こういうことを考えて唸ってしまうのは、私が今、とある系外惑星の発見論文を書いているからです。星の明るさの0.1%ほどの変動という微弱なシグナルを捉えて、色々な観測でフォローアップして、このシグナルは惑星っぽい!と言いたいわけですが、装置由来のシグナルの可能性はないのか?連星の可能性はないのか?と、色々なありうるシナリオを考えて、その可能性を一つ一つ吟味して、確率を計算して、99.999…%惑星である、と言えるまで必要な解析を繰り返す、ということをしています。4000個見つかってきたうちの1つの惑星でこれなのだから、人類が初めて出会う「生命のシグナルっぽいもの」を見つけたとしたら、その確認にどれだけの時間がかかるのか、考えるだけで気が遠くなりそうです。それで何年も経ってやっと99.999…%本物の生命のシグナルっぽいぞ、と言えたとしても、わたしたちは彼らの姿を絶対に見ることはできないわけですし。

まぁそんなわけで、「人類はいつか生命を発見するでしょう」だなんて簡単には言えないなぁと思うのですが、それは昔の私が知らなかっただけで、科学の営みとして当然の在り方です。そうやってああでもないこうでもない言うのが研究の醍醐味でもあるし。


…でも。
そうはいっても、別に、宇宙のどこか私たちの預かり知らぬところに、私たちの知らない生命は、いたっていいのです。全然いい。

逆に、私たちが絶対に観測できない宇宙の果てまで見渡しても、どこにも生命なんてものは存在しなくて、地球が特別な惑星だというのなら、それもまたいいです。この宇宙にたったひとつっきり。そんな世界も、想像するとかなり、ぞっとするほど美しいと思います。

光の速さが有限で、観測できる宇宙に果てがある限り、私たちには絶対に知り得ない宇宙があるということ。それは絶望的なことのようであり、私たちに妄想の余地を残してくれているということでもあります。たとえばこんな文明を築く知的生命だって、宇宙の果てにはいるかもしれないし、いないかもしれない。99.999%はいないかもしれないし、でも0.001%はいるかもしれない。その「可能性を否定しきれない」ところに科学の良さがあるように思います。

宇宙のどこか遠くで、今この瞬間にも生命が息づいているかもしれない。そんなことを考えながら眺める夜景の、なんてロマンチックなことか!夜景にあるのは人類のロマンです。

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と、いうわけで。聖なる鐘の音が響く頃なので、こんなお話を書かせていただきました。

この文章は天文同人サークルEinstein’s Crossさんが行っている、Astro Advent Calendar2021という企画の一環で書かせていただきました。クリスマスに向けて毎日一本ずつ、宇宙や天文に関する記事が投稿されるというもので、最近の私はこれを毎日読むのがもっぱらの楽しみです。

他の文章もリンク先からぜひ。Einstein's Crossの皆さん、お誘いいただいてありがとうございました!

そしてこれを機に、前からやろうやろうと思っていたnoteもやっと始めてみたので、動画よりも文章でお届けしたいような内容はこちらに書いていこうかなあと思ったり、思わなかったり。よければたびたび覗いてみてください。

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(あとがき)
なんだか改めて文章を読んでいてちょっと反省なのですが、そうはいっても人類はこれまで、たどり着けない宇宙の、これまで知らなかった現象を「発見」してきてはいるので、そんなに絶望することもないかもしれません。系外惑星しかり、重力波しかり、ブラックホールしかり。充分な確率が導かれれば「発見」と言うことはできます。生命はまだ「生命の定義」すら曖昧だという点でやっぱり議論に時間はかかるとは思いますが。わたしが生きている間に、見つかると良いなあ、生命。

ところでこの文章を書いている時、私は岡山の観測所にいて、口径188cmという大きな望遠鏡で系外惑星を観測しています。観測所の山からは夜景がよく見えます。さっき空き時間に外に出て星景写真を撮ってみましたが、街明かりが鬱陶しくてムムムとなりました。観測者としては、やっぱり夜は暗くあって欲しいとは、思いますが。まぁでも、あの街明かりこそ、人の生きている証なので。

宇宙のどこか知らない惑星の、どこか知らない街でも、夜景を見てはロマンチックってため息ついたり、街明かりで星が見えないって文句言ったり、夜の街にイルミネーションを纏わせて、きれいだねって囁きあったりするのでしょうか。





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