見出し画像

私と仏教

※この記事は元々2018/9/29に昔の自分のブログに投稿したもののコピペです。

曹洞宗の僧侶なのに坐禅に百%没頭できない後ろめたさに希望の光!道元禅師の坐禅を様々な対比で饒舌に説明。最終章では仏教は2500年間、失敗し続けているプロジェクト?森田真生の問いを口火に、サピ全や岡潔、ピカソの創造性の話まで展開。ニー仏節炸裂&完結!遍く坊主に届け!「感じて、ゆるす仏教!」の長文感想(敬称略)  

画像1

「はじめに」

日本仏教の僧侶、寺の坊主は、その多くが世襲。政治家でいう二世三世議員。その中には立派な世襲僧侶もいれば、堕落したお坊ちゃまの僧侶もいる。私は、その後者にならないように約10年間ジタバタする僧侶。32歳。

そんな私は、日本の坐禅マスター藤田一照と仏教研究者の魚川祐司の共著「感じて、ゆるす仏教」を読み 感動した。この感動を多くの人(特に僧侶)と共有したいと思い感想文を書いた。しかし、気持ちが溢れすぎて、やたら前フリが長くなったので、「感じて、ゆるす仏教の感想」の2部だけでも読んでもらえたら嬉しい。1部は、私が堕落したお坊ちゃま僧侶になりたくなくて、ジタバタする姿が書いてあるだけ。なので、こちらは仏教がつまらないと思っている世襲和尚さんと共感できたら幸い。


目次

1部:感じて、ゆるす仏教の感想までの序章

「僧侶にとって坐禅は、つまらないままでいいのか?」
「私にとって仏教がつまらない理由」
「私にとって仏教が面白くなった転機」

2部:感じて、ゆるす仏教の感想

「道元禅師の坐禅を様々な対比で饒舌に説明」
「仏教は2500年間、失敗し続けているプロジェクト?森田真生の問いかけ」


1部:感じて、ゆるす仏教の感想までの序章

「僧侶にとって坐禅は、つまらないままでいいのか?」

私は永平寺でも総持寺でも坐禅修行をした。そんな坐禅の感想は、正直に言って、本当につまらなかった。だから修行を終えてからは、全然坐禅なんてやったことがない。それでも私は現在、曹洞宗の僧侶。世界でZEN(禅)といえば曹洞宗。なので人から「坐禅をやってみたい」と言われることも多い。そんなとき、自信満々で坐禅を勧められない自分が恥ずかしい。坐禅に興味をもってくれた人に申し訳ない気持ちにもなる。

しかし、ただ坐っているだけで何にも面白くないものは人に勧められない。私自身が無理矢理やって何かを得られたという実感もない。だから勧められないのも仕方がないといえばそれまで。ならば、どうして僧侶をやっているのか?理由は、先祖供養という職業として曹洞宗の僧侶を仕事にしているから。先祖供養と坐禅は、関係ない別物。だから坐禅は自信満々に勧められなくても、先祖供養をしっかり全うしていれば問題がない。食べていくのにも困らない。そんな事情もあり曹洞宗の僧侶をやめずに続けている。

じゃあ坐禅はそっちのけで、このまま先祖供養に邁進していればいいのか!というと、そういう訳にもいかない。それだと、例えば、モノグラム柄の商品が売ってないルイヴィトン。いや、牛肉の入ってない豚しゃぶ。つまり、当然あると楽しみにしていたお客さんはガッカリする。自分が世界の禅のお膝元の日本の曹洞宗の僧侶である以上、先祖供養だけでなく、すべからく坐禅にもプロフェッショナルでありたい。

「私にとって仏教がつまらない理由」

そんな風に思いながら、つまらない坐禅に自分なりに価値を見出そうと葛藤して約10年。やっと前向きに坐禅に取り組めるようになった。

この気持ちの変化に大いに役立った本を四冊紹介する。一冊目は藤田一照、山下良道の共著「アップデートする仏教」。2013年出版の本で、日本仏教界の現状を、とてもうまく説明し、更にそれをアップデートする必要性を活き活きと説く。この本は、僧侶として「どう生きればよいか」七転八倒する私の道しるべとなった。

前向きに坐禅に取り組むのに役立った本の二冊目を紹介する前に、この仏教に対しての私の思いも明らかにしておきたい。

そもそも坐禅が世界に広まるきっかけを作ったのは、2500年前に生まれた仏教の開祖、お釈迦様。またの名をブッダ。彼の説いた仏の教え、つまり仏教が坐禅の起源。以下、お釈迦様の教えを“仏教”という一言でまとめる。

この仏教に関しても、私は坐禅と同じようにマイナスな気持ちを抱いていた。学べども学べども、総じて、つまらない、面白くない。本当にクソ坊主だと呆れられてしまいそうだが、事実楽しくないのだから仕方がない。できるだけホリエモンを見習って本音で生きていきたい。では、どうして私にとって仏教はつまらないのか。それは、自分の人生に全く役に立つ気がしないから。

例えば、仏教を知るのに一番手っ取り早いのは、手塚治虫の漫画ブッダ。死ぬほど感動するし、巨匠が巨匠たる由縁を痛感できるので必読は必読。だが読後「自分の人生に仏教をどう活かそうか」と考えると悩んでしまう。強いて言えば“私利私欲に溺れた人は、いずれ苦しみに悶える。だから自分の欲望にはよくよく気をつけろ”といったことだろうか。

私が思うこの漫画、というか仏教の弱点は、その素晴らしい教えを現代人の日常生活に活かせるかというと、活かせそうにないと思えてしまうところ。実践が難しい。だから結局、私利私欲はよくない。いや、わかっちゃいるけどやめられない。そして私は同じ過ちを繰り返し反省しながら生きていく。そうやって人類は今日まで進化してきた。このバカの壁を破る程のインパクトに欠ける仏教。巨匠は凄いし、お釈迦様も凄い。しかし読者の人生に、仏教を取り入れなければ生死に関わるという切迫感に欠ける。キレイ事の域を出ない。これは私のただ欲張り過ぎな指摘と言えるが、結果的に仏教は自分の人生の毒にも薬にもならないボックスで眠る。

なぜそんなに仏教に批判的なのか。端的にいえば、快楽を求める傾向の強い人類に仏教が太刀打ちできないから。例えば今の時代、私たちはアクション映画に興奮し、良質な音楽に癒され、ディズニーランドで夢心地を買い、海外旅行で異世界に触れ、ゲームに没頭し、スポーツに熱狂する。これらは人間の五感にどれだけ刺激を与えるかが勝負の世界。私たちは、日夜労働に精を出す。それと引き換えに、この感動を味わい生活する。大多数の人間はそれに満足している。

これに逆行するのが仏教。仏教は興奮しないことを善とする価値観。そして最終的に、心が揺れない境地に究極の美を感じる。だから仏教は世の流れに逆らう教えと言われる。そんな教えに共感できるのは、どんな人だろう。例えば、なぜこの世界で私は労働をして生きているのか疑問を抱く人。または、この世界の王道に、満足できない人。そういう苦悩や葛藤を抱える人を受け入れる傾向をもち2500年仏教は伝承されてきた。理由はコレだけではないだろうけど、結果的に、現在、キリスト教やイスラム教と比べると仏教はマイノリティな宗教。

個人的雑感としては、この辺りに仏教の限界を感じて虚しいというか。この問題を真剣に考えるのも疲れるから虚無感を感じた体で惰性で先祖供養仏教の僧侶人生を過ごしているというか。例えば地球全体が大火事だとして、そんなときにジョウロで水をやっても結局は全焼するから無駄。いや実際に目の前に火事で苦しんでいる人がいたら精一杯消化するんだけど、周り見渡す限り全部火事では、絶望しながら水をかけるしかないというか。グチグチいっておらずに技術のない消防士は水のかけ方から鍛え直せって感じかもしれない。けれど、そういった無力感に苛まれると、ついつい漫画ブッダにも文句をつけ、仏教をつまらないと愚痴りたくなる。この中二病的な無知で愚かな自問自答に終止符を打つ。そのために、私にとって仏教がつまらなかった理由を書いた。

「私にとって仏教が面白くなった転機」

そこまで、つまらないのに僧侶をやっている理由は、先祖供養が生業だから(とはじめに書いた)。すると再び、では仏教がつまらないまま僧侶をやっていていいのか問題が浮上。それはポテトの売ってないマクドナルドだし、DVDが置いてないTUTAYAなので駄目(と、コレもはじめに書いた)。

そうやって、これまで悲観的に悶々としながら仏教と向き合ってきた。そんな私を救ってくれたのが、ニー仏こと魚川祐司の著「だから仏教は面白い!」と「仏教思想のゼロポイント:“悟り”とは何か」。私が前向きに坐禅するための基礎を作った本の二冊目と三冊目。

まず二冊目は、仏教がつまらないから、面白いに大転換する名著。私の読んだ仏教書の中でベスト1で読み易い。だから他の仏教書と比べて段違いに眠くならない。漫画ワンピースを読む勢いで読める。仏教入門編の金字塔!全体最適。

次の三冊目は一気に難易度が上がるので眠くなり挫折者続出だが、諦めず完読できればココロが心から躍る。日本のヒップホップ界のレジェンド宇多丸のラジオでお勧めされたり。哲学者の東浩紀も絶賛。

私の手塚ブッダと魚川著書に対しての感想の差異は、自分が当事者になれるか、なれないか。私は、手塚ブッダはお釈迦様と巨匠を神格化して思考停止してしまった。対して魚川著書には、今 生きている自分に、仏教で人生がもっと面白くなるぞ?さあ実践しようとリアルに誘われた。フィクションとノンフィクションの違いにも近い。魚川著書は、現代人が今生で仏教を学び坐禅を実践すれば、悟りというよくわからない境地に到達できると言語で強く言い切る。そんな夢物語を信じさせてくれる著者の筆力に感動。

その悟りの境地とは、しばしば150キロの球がイチローにはゆっくりみえたり、将棋の藤井四段やスケートの羽生結弦選手が最高のパフォーマンスを発揮したときの精神状態に例えられる。茂木健一郎はその状態を脳が最高に集中したフロー状態と呼ぶ(その先はゾーン)。そんな境地や状態は、私はスポーツや勝負の世界の超人のみが見られるものと思っていた。しかし、魚川祐司は仏教でもその世界が見られることを著書で饒舌に説いた。繰り返すが、これは私にとって本当に夢と希望に満ちた話だった。

ただ不安なのは、仏教の興奮しないことを善として、心が揺れない境地に美を感じる価値観と、私の精神状態はいささか矛盾する。世の流れに逆らう仏教なのに、世の流れと同じように興奮しながら、悟りを目指すことが可能なのか?甚だ怪しい。しかし、私は仏教を信じる以前に、人生楽しんだもん勝ち教の熱心な信者。だから思ったまま突き進むしかない。

私は恐らく死ぬまで僧侶を続ける。ならば、つまらないと思いながら坐禅や仏教と向き合うよりも、楽しく機嫌よく僧侶の仕事がしたい。その為には仏教にも坐禅にもプロでなければならない。これらの本に出会ったお陰で、その道がかなり明るくなった。そして何よりも、仏教で人生はもっと面白い。そう思えるようになり大満足(吾唯足知)。この三冊に私は救われた。

2部:感じて、ゆるす仏教の感想

「道元禅師の坐禅を様々な対比で饒舌に説明」

私が前向きに坐禅に取り組むために役立った本の四冊目、藤田一照、魚川祐司の共著「感じて、ゆるす仏教」

前置きで長々と私にとって坐禅と仏教がつまらない理由を書いた。次に仏教は魚川著書のお陰で、面白いに転換したことを書いた。最後は「感じて、ゆるす仏教」を読破して、坐禅がつまらないから実践したい!に意識変革したことを書く。

その坐禅について、私のぶっちゃけな意見をおさらい。なぜ私にとって坐禅がつまらないのか。理由は単純。ただ坐っているだけで何の生産性もないものに時間を割く意味がわからない。眠い。足が痛い。辛い。我慢しても精神は強くならない。結果的に修行時代1年以上続けたが、何か得られたという実感もない。そんなものは人に勧められない。と、こんな具合。

しかし、そんな坐禅がつまらない、人間の役に立たないものなら、早晩なくなっているはず。なのに坐禅は、お釈迦様の生まれた時代から、ただ坐るだけなのに、消滅せずに今日まで2500年間受け継がれている。

そして21世紀、世界各地で多くの人が坐禅に取り組んでいる。今は亡きアップルの創業者スティーブ・ジョブズもその一人。グーグルの社員も10人に1人は、坐禅を現代風にアレンジしたマインドフルネスを実践。世界で800万部超えのサピエンス全史の著者ユヴァル・ノア・ハラリも坐禅とは種類が異なるが、瞑想を日に2時間実践する瞑想玄人。そんな世界のトレンドに、曹洞宗の僧侶が取り残されるわけにはいかない。坐禅をつまらないなんて言ってたら性根が腐ったクソ坊主のまま死んでしまう。そんな焦りにバッチリ応えてくれたのが「感じて、ゆるす仏教」。

曹洞宗の開祖、道元禅師の坐禅を「ただ坐れ」の圧倒的な説明不足&下手のまま片づけずに、様々な対比を駆使して説明。どういうことか触りだけ。例えば、男性はモテるために筋トレをする。女性は旅行するために仕事をする。子どもは勉強ができればいい大学に入れる。いい大学に入れれば親が喜ぶ。この思考回路を、魚川祐司は“未来の目的のために現在を質に入れる「取り引き」”という。この取り引きの優劣をひたすら競い合うのが世の中。坐禅もその多くは取り引きで実践される場合が多い。彼は、この文脈から一時的にであっても離れることが、本来の坐禅の醍醐味と語る。

この取り引きの坐禅と、取り引きではない坐禅の違いを、本書では、主に魚川祐司が藤田一照に問いかける形で説明がされている(下の画像に違いをざっくりまとめ)。この縦横無尽過ぎる問答に私はうっとりして、著者二人にときめいた。そして坐禅がしたいに心変わりをした。という訳で、取り引きから離れた坐禅を行えず葛藤する人に「感じて、ゆるす仏教」激おすすめ!

画像2

「仏教は2500年間、失敗し続けているプロジェクト?森田真生の問いかけ」

「感じて、ゆるす仏教」は、坐禅のススメだけで終わらない。最終章の対談は、数学者の森田真生の問いからはじまる。私はこの問いにも心を撃ち抜かれた。

「お坊さんたちは悟りを最終のゴールみたいに思っているようですけど、そうではなくて、悟りの基礎の基礎ぐらいは義務教育レベルでみんなものになっていなくては、仏教としては失敗なんじゃないですか。悟りの後を長い人生どう生きるかということを、もっと言わなきゃいけないのではないですか(P219)」
「ゴータマ・ブッダは私たちが悟りに至るための方法を説いていて、それが仏教の本義であるはずなのに、いまの仏教者たちが、『一生かけても悟れませんでした』みたいなことを平気で言っているのでは、仏教は二千五百年間、失敗し続けてきたということになりませんか。ゴータマ・ブッダの仏教は、人々を悟らせるためのものなのだから、それをいま私たちが実現できないのであれば、仏教は失敗し続けているプロジェクトということになってしまいますよ。(P220)」

この問いかけに著者の二人は、素直に応え意見を述べている。私はこの問いを、以下の文脈で受け止めた。

1、日本仏教の僧侶は、亡くなった人を弔う。ご先祖様を供養することで日本人の役に立つ。2、日本仏教の僧侶は、日本の観光資源、歴史的な重要文化財のお寺を維持管理して日本の伝統の継承と繁栄に役に立つ。3、日本仏教の僧侶は、世界に向けて仏教や禅を広めて、啓蒙による人類全体の底上げに役に立つ。

様々な形で日本仏教の僧侶は社会の役に立つ。しかし、いつの時代も変わらないが、誰がどれだけ社会の役に立とうが問題がなくなることはない。今現在も、自殺や貧困、鬱に苦しむ社会人、いじめ、引きこもり、変質者の犯罪等、国内には数多の問題がある。これを世界にまで広げると目眩がする。

彼の問いかけは、そんな世界への大悲からくる、日本仏教界の僧侶に対する純粋で無垢な問題提起なのではないだろうか。これは若き頃の道元禅師の問い「人はもともと仏であるならば、どうして修行して悟りを求める必要があるのか?」とも、どこか似ている。

私は、悟りの基礎の基礎ぐらいは義務教育レベルでみんなものになっていて、悟りの後を長い人生どう生きるかということをみんなで考えられる世界を想像して、夢心地になった。だから、何らかの形でその世界の実現に尽力したい。という訳で、私を含む僧侶、また坐禅や仏教に没頭する人の中から、誰か一人でもいい。仏教でもっと面白い世界を創造するための宝くじを当てる日が来るのを楽しみしている。そのヒントが随所にあった「感じて、ゆるす仏教」必&読!

画像3

追記:ユヴァル・ノア・ハラリが、世界に向けて仏教を広めて、啓蒙による人類全体の底上げの役に立っている事実も日本仏教の僧侶は重く受け止めるべきだと思う。

※さっそく同級僧の本多清寛和尚と千葉悠道和尚、鍼灸師の櫻井祐亮君から、感想文に対する叱咤激励頂きました!そして本人からも嬉涙!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?