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忙しくて疲れが溜まっている人へ、めちゃくちゃ贅沢な余暇の過ごし方

「私たち人間の解決しない苦しみ、三毒と呼ばれる煩悩(貪瞋癡→貪り・怒り・愚かさ)で忙しない世間とはまったく違う時間が流れていて心が洗われた。尼さんの僧侶が20名くらいいたけど神々しかった。特に皆さまの坐禅の姿勢が本当に美しかった。清浄な空間だった」

 これは静岡で宿坊 禅の湯を経営しながら子育てを東京でするという離れ業にトライするお寺の娘 稲本雅子さんが、先日、愛知専門尼僧堂(堂長 青山俊董老師)の3日間の摂心(坐禅会)に参加した感想です。坐禅中もマラソン選手のランナーズハイのような感じで、普段とは違う自分の意識(心の働き)に気づくことができたそうです。

 そう語ってくれた彼女は、この摂心を世間離れをひと時体験するという意味ではすごく学びと感動の多い時間だったとまとめつつ、あの世界にガチで出家して飛び込むのは、俗世に未練がなくなったときだと強く感じたとも言っていた。

 その未練について聞いていたら、私は岡潔さんの発言を思い出した。

宗教の世界には自他の対立はなく、安息が得られる。しかしまた自他対立のない世界は 向上もなく理想もない。人はなぜ向上しなければならないか、と開き直って問われると、いまの私には「いったん向上の道にいそしむ味を覚えれば、それなしには何としても物足りないから」としか答えられないが、向上なく理想もない世界には住めない。だから私は純理性の世界だけでも、また宗教的世界だけでもやっていけず、両方をかね備えた世界で生存し続けるのであろう。(『春宵十話』、角川ソフィア文庫、p.52f)


 私は、この発言を『感じて、ゆるす仏教』という本で魚川祐司さんが取り上げていて知った。

 私や彼女が、岡潔さんや魚川さんのように深いところまで考えられているかは置いておくとして、どう生きればいいかを模索するときに、宗教や仏教に答えを求めると、少なくない人がこのような壁というか問題に突き当たるのではないだろうか。つまり、俗世間で生きる面白さと、仏教でいうところの悟りの清浄な世界に憧れる気持ちとの折り合いの付け方というか。

 21世紀に、その辺りを絶妙なバランス感覚で世渡りしているのが、魚川祐司さんであり、共著者の禅僧 藤田一照老師だと思うので、彼女には是非『感じて、ゆるす仏教』にチャレンジして欲しい。

 ちなみに私が『感じて、ゆるす仏教』に興奮して書き殴った世襲僧侶としての矜持はこちら

 そして、こちらは魚川祐司さんの岡潔さん小話

 先週は参議院選挙をはじめ、京アニの事件や吉本興業云々、大きなニュースがたくさんあって、精神的に疲れた人も多いのではないだろうか。

 こんなときだからというわけではないが、彼女のように手と足と口を動かすのをやめて、じっくりと坐禅をするという体験は、日々の生活に忙殺されて疲れが溜まっている現代人にとって、めちゃくちゃ贅沢な余暇の過ごし方だと思う。俗世間と離れて、なにもしないからこそ、気づく何かがそこにはある。

 ちょうど秋頃から東京近郊のお寺で前途有望すぎる僧侶さんたちが一般の方を受け入れた坐禅会をはじめるらしいので、興味がある方は行ってみるといいかもしれない。

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遊民

坊さん / 名古屋 曹流寺 (副)住職 / 永平寺、總持寺 修行 / 元DJ / 趣味ラップ:https://www.youtube.com/user/asobumin
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