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『坐禅修行が足りない訳』

以下、2022春のお彼岸お檀家様へのお便りをnoteにも掲載しておきます。

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 前回の暮れのお便りでは「自分の人生を出自や環境のせいにせず、あらゆる事情を全部まとめて自分が選んだのだと覚悟して、私は僧侶として歩んでいくんだ」という決意表明をいたしました。

 これまでのお便りを改めて振り返りますと、世襲僧侶という立場ならではの責任感と罪悪感とに揺れ動き、理想と気持ちの辻褄をなんとか合わせようと、もがいていたように思います。あまりにも正直に吐露しすぎたため、時にはハラハラさせてしまったこともあったかもしれません。でも、もう大丈夫です。温かく見守っていただき有難うございました。これからはどうぞご安心ください! と言いたいところですが、まだまだご心配をお掛けするかもしれません。

■必要不可欠な「悟り」体験

 今回お伝えしたいのは、僧侶としての覚悟に続く「実践」の話です。具体的に申し上げますと、坐禅修行についてです。

 大前提として、仏教で出家する僧侶は「悟り」体験というものを大事にしてきたという歴史があります。お釈迦様は、6年間の修行ののち、菩提樹の下で7日間瞑想をし、8日目の明け方にお悟りを開き、慈悲をもって衆生を救済する人生を送りました。そのターニングポイントが菩提樹の下でお悟りを開いた瞬間です。

 曹洞宗の開祖・道元禅師の場合では、比叡山で修行したあとに中国に渡り、如浄禅師という師匠と仰げる僧侶に出会い、師のもとでの坐禅修行中に「身心脱落」という体験をなさいました。臨済宗の場合では、それは坐禅修行中に師匠の元で公案というものに向き合って得られる「見性」という言葉で表現されています。

 これが現代の曹洞宗で出家した僧侶の場合では、既定の修行道場での坐禅修行中に身心脱落を……と申し上げたいところですが、住職になる為の過程をクリアすることで自動的に「悟り」体験をしたことになります。その結果、黄色の袈裟が着られるようになるのです。

 学びを深めていく中で、私はその体験をしていないという事実に直面しています。住職の免許をもらうためだけに、僧侶の修行を渋々経てきた私は、黄色の袈裟を着る資格がないインスタント僧侶といえるかもしれません。

 お檀家さまに「僧侶として生きていく揺るぎない覚悟が決まった」と宣言した以上、私はこの事実に目を背けるわけにはいかなくなりました。今の私には、そのような体験へと至るための坐禅修行が圧倒的に足りていないのではないか。学びを深め、覚悟を決めた今、後追いでも坐禅修行に励まなければならないと思っています。

 先だってのお便りでもお伝えしましたが、2020年11月から「TikTok」アプリにて短い仏教法話の投稿を始め、フォロワーが20万人の「日本一の僧侶TikToker」になりました。それを機に、講演会や書籍の執筆など、さまざまな依頼があります。(あるはずのない)後ろ髪を引かれる思いですが、今は、まず日々のお勤めと、僧侶としての修行に集中するため、依頼は全てお断りしています。

■亡くなった人を成仏させられるのか

 私が、悟り体験と坐禅修行にこだわるのには、もうひとつ理由があります。

 お檀家さまと、これまでお送りした方々に誠実に向き合えば向き合うほど、亡くなった方に引導を渡して涅槃の世界へ導くためには、生老病死の四苦八苦を超越した境地を自分自身が覚知しておく必要が絶対にあるんだという思いが日を追うごとに強くなってきています。私は坐禅修行によってこの事実と向き合い、少しでもそういった境地へ近づく努力をしなければなりません。

 この「悟り」体験というのは、般若心経でいうところの「色」の世界である俗世間のすべてを「空」じること、娑婆世界のこだわりから完全に離れることとも言われます。それは、この世から三途の川を渡り、あの世である彼岸へ渡ることに重ね合わせられます。つまり、その境地を生きながらにして覚知した僧侶だからこそ、亡くなった人に引導を渡せる、すなわち死者を成仏させられるわけです

 この世の話だけにとどまらぬ境地を、坐禅修行で生きながら深めることこそが、お檀家さまの葬儀を勤める僧侶としての本務であると私は確信しています。これが、悟り体験と坐禅修行にこだわるもうひとつの理由です。

■坐禅のお誘い

 昨年末のご祈祷法要に足を運んでくださった方々にはお伝えしましたが、私がこのような心境に到達できたのは、これまで20代で1万時間弱の坐禅修行を行じてきた現在30歳の僧侶「仏教のアレ編集部」の遊心和尚と道宣和尚のおかげです。

 今年のお正月には彼らと共に、1月3~5日の3日間に分けて40分×26炷の坐禅修行をする「摂心」を開催しました。昨年GWに続いて2度目の開催です。毎日の坐禅に加えて、今後もこのような長時間の修行の機会を定期的に設けて邁進するつもりです。また、元旦には共に托鉢を行ずることで、僧侶としての意識を新たにしました。こちらも、摂心と並行して定期的に行いたいと思っております。

 坐禅は、禅宗の僧侶にとって三度の食事と同じくらい、いえ、生きることそのものと言っていいほど大切なものですが、僧侶でないと行ってはならないわけではありません。誰にでもできます。道具もいりません。もちろん、私のような特別な覚悟も必要ありません。日々の暮らしで増えすぎた心の荷物を下ろす時間として、多くの方に取り組んでいただければと思っております。

 私がここまでこだわっている坐禅のことがちょっと気になってきた方、また、私が本当にキチンと修行をしているか直に確かめてやろうという方、TikTokの「仏教徒ちゃん」と曹流寺の「堀部遊民」のどちらが本当の私なのかわからなくなってきたという方、冷やかしでも構いませんので、ぜひ一度坐禅会にお越しくださいませ。すでに、数名のお檀家さまにも参禅頂いております。

追記

 毎回お便り作成が苦悩すぎて、ついに今回から坐禅フレンドの@abx_ratnatrayaさんに、私が伝えたいことを喋って、土台を文字に起こしてもらうチートを使いました!満足84000の文章に仕上げて頂き、感無量です。感謝合掌涙

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