おばあさんのバイキング

9月1日発売の新刊『どこでもない場所』に収録したエッセイを公開しています。(10分の2本め。)

 旅先での朝食は街の中のカフェや喫茶店に限ると思っていて、特に一人旅ではホテルや旅館で食べることがあまりない。何かこれという理由があるわけではないのだが、できれば早朝から開いているカフェや喫茶店で、その街の人たちが新聞を読んだり店員と他愛のない噂話をしたりしながら朝食を食べているのを横目に、のんびりコーヒーやお茶を飲むのが好きなのだ。朝の過ごし方は、その街の人々の暮らしを映し出しているような気がする。

 ヨーロッパであれば、たいていの地域でパン屋とカフェが朝早くから開いているし、アジア圏ならお粥の屋台へ出向くことになる。日本国内なら、地域によってあれこれ様相の変わる喫茶店のモーニングセットが面白い。もっとも僕は朝からたくさん食べることができないので、本当は美味いお茶かコーヒーがあればそれで充分だ。

 だから、チェックインしたときに、朝食がうどんのバイキングだということをフロント係から聞いていなかったら、僕がホテルの食堂へふらりと足を運ぶこともなかったはずだ。

 うどんといえば香川県。そう、これは香川県での話である。


 その朝、僕は珍しくホテルの一階にある食堂へ向かった。泊まったのはけっして高級とは言えない、むしろ、どちらかといえばかなり安い部類のビジネスホテルで、他の宿泊客のあとについてフロントのすぐ脇にある入り口を抜けると、いくつかのテーブルとパイプ椅子が無造作に置かれた広い部屋に出た。それは食堂というよりは、食事もできる休憩室かロビーといった雰囲気の場所で、くりぬかれた壁の一部が、細長いカウンターを兼ねた窓になっていた。その向こう側には調理場が見えている。

 テーブルはどれも小さくて、クロスは掛けられていなかった。つるりとした樹脂製の天板を拭けばそれだけで掃除が終わるからだろう。パイプ椅子がガタつくのはしかたがないとしても、破れたところをビニールテープで補修してあるのは気になったし、そのビニールテープが半分剥がれてブラブラ垂れ下がっているのは、もっと気になった。

 壁に取りつけられているテレビはかなり大きなもので、壁の半分近くを占めていた。画面の中で司会役のタレントが難しい顔つきで社会問題についてコメントしているのを、年配のカップルがぼそぼそと食事をしながら眺め、ときおり感想を漏らしていた。ここ十年近くワイドショーをほとんど見ていない僕は、画面に映っている人たちが記憶の中にあるワイドショーの出演者たちと変わらないことに驚いていた。司会者もコメンテーターも番組の内容も、見たことのあるものばかりだった。ただ全員が十年分歳を取っていた。

 フロント係の話とは違って、朝食はうどんのバイキングではなかった。部屋の隅に置かれた事務用の長机には白いレースの布が掛けられ、その上にバイキングというにはちょっと寂しい品数の料理皿が並んでいた。ごはん。焼き魚。筑前煮。生卵。白菜の漬け物。そして味噌汁。メニューはそれがすべてで、料理をつくった人たちには申しわけないのだけれども、見た目はどれもあまり美味しそうではなく、これはもうメニューを選ぶのではなく、朝食を食べるか食べないかを選ぶという、別の選択を迫られているような感じだった。

 けれども僕に選択する権利はなかった。

 驚いたのは、長机のそばに置かれた背もたれつきの丸い椅子に小柄なおばあさんが座り、よく通る高い声で、はいあなたはごはん大盛りね、魚は三切れ取りなさいね、筑前煮はニンジンを多めに取らなきゃダメねなどと、一人ひとりに食事の分量を指示していることだった。

 おばあさんが客の何を見てそれぞれの分量を判断しているのか、いや、それ以前にどうしてそんな指示を出しているのかが僕にはわからなかった。けれども、バイキングの列に並ぶ宿泊客たちは、誰もおばあさんの指示に逆らうことなく、言われたままの料理を自分のプレートに載せ、それぞれのテーブルへと静かに戻っていくのだ。

 どんどん客に指示を出すおばあさんは、とても楽しそうだった。

 やがて僕の番がやって来た。椅子の座面には座布団が何枚か重ねてあって、もしもそれがなければ、おばあさんは僕の視界から消えてしまいそうだ。

 朝からたくさんの食事を摂るのは苦手なので、僕はお腹はあまり空いていないとおばあさんに伝えた。

「朝ご飯はたくさん食べないと力が出ないんだよね。ゆっくり食べればちゃんと食べられるはずだからね」おばあさんは僕の目を覗き込んだ。

「お客さんはハイカラだね。どこから来たの」

「東京です」

「東京だね。じゃあ、ご飯じゃなくてパンにしなきゃね」おばあさんは体をひねるようにして手を伸ばすと、カウンターの裏から小さなまるいフランスパンを二つ取り出し、僕のプレートにひょいと載せた。

「筑前煮は食べなくていいから魚をふた切れね。それから卵とお味噌汁ね。卵は二つね。うちの卵は美味しいからね。あと、漬け物は無しでね」おばあさんは僕の朝食をそう決定した。

 おばあさんというものは、たいていの場合、おじいさんよりも大胆だし恐いもの知らずだと僕は思っている。あれこれ迷うおじいさんを尻目にさっさとものごとを決め、前を向いて歩き出すおばあさんの姿は、見ていて気持ちがよいとも思う。

 ただ、これは朝食ですからね。しかも僕の朝食ですからね。

 けれども、その毅然としたもの言いは、なんだかとても逆らえるような雰囲気ではなく、僕はおばあさんの決定に従うほかなかった。はい、わかりました、魚をふた切れいただきます。漬け物は無しで。はい、ありがとうございます。

 焼き魚がふた切れ。生卵が二つ。お味噌汁。そして小さなフランスパンが二つ。それがその日の僕の朝食になった。僕が何を食べるのかを勝手に決めるのはまだいいけれども、はたしてこの組み合わせはどうなのかと思う。

 あのおばあさんは、いったいどういう立場の人なのだろうと考えながら、何とも不思議な朝食をいただいていると、客の列をすべて捌き終わったおばあさんが、皺だらけの顔をクシャクシャの笑顔にして僕の前に現れた。コーヒーカップを手に持っている。

 お客さんはハイカラだからコーヒーを飲まなきゃね。そうですね、ありがとうございます。

「砂糖は二つね」おばあさんが言った。

「あ、できれば砂糖は無しで」

「砂糖は二つ入れなきゃ。もう入れたから大丈夫ね」おばあさんはあっさり言う。

 このおばあさん、僕には何でも二つにしたいらしい。

 ゆっくりと食事を終えた僕は、甘ったるいコーヒーを飲み、空になった皿の載ったプレートを手にカウンターへ近づいた。使用済み食器の返却口はカウンターの端にある。

 朝食時間がそろそろ終わりかけているということもあって、バイキングにはもう誰も並んでいなかった。おばあさんは自分の椅子に座ったまま食堂を見渡し、みんなが食事をしているのをのんびりと眺めている。ときどき何かを思い出したようにハッと入り口を見ては、再び視線を食堂へ戻していた。

「ごちそうさまでした。朝食は、うどんのバイキングだって聞いていたんですけれど、今日はうどんじゃなかったんですね」僕はプレートを返すついでにおばあさんに尋ねた。

 おばあさんの顔がパッと明るくなる。

「うどんあるよ。すぐ持ってくるね。お客さん、うどん二杯食べるね」おばあさんは大きくうなずき、すぐに椅子から降りようとした。

「そうそう、うどん食べなきゃね」おばあさんはとても嬉しそうだった。

 けれども僕はたった今、朝食を食べ終えたばかりなのだ。このままだとさらに朝からうどんを二杯も食べることになってしまう。おばあさん、さすがにそれは無理だ無理です。

「あ、聞いただけなので」

「え、うどん二杯食べないのね」おばあさんは僕を見上げるようにして悲し気な顔を見せた。

「食べないんだねえ」

 僕はなんだか胸が痛むような感覚を覚えた。いったいどういう理由で彼女がここにいるのかも、なぜ客の食べるものを勝手に決めているのかもわからないけれど、とにかくおばあさんはこれを楽しんでいたのだ。もしかすると僕はおばあさんの楽しみを奪ってしまったのかもしれない。悪いことをした。余計なことを聞いたせいで、おばあさんを悲しませてしまった。

 おばあさんは僕をじっと見てから、くいっと首を曲げた。

「じゃあ、うどん一杯だね」そう言った。

「いや、結構です」

 ようやく僕はおばあさんのバイキングを断ったのだった。


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『どこでもない場所』

9月上旬刊行のエッセイ集『どこでもない場所』(左右社)の案内やメイキングなどのあれこれをまとめるマガジンです。たぶん出版社の担当編集者もいろいろ書きます。書籍内容の無料公開もここで予定しています。また、いま絶賛募集中のインタビューのうち、noteに公開された記事はできればこ...
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コメント2件

ぷぷ(^.^)
鴨さん、がんばってうどん一杯食べたのかな?と、おばあさんがくいっと首を曲げた、の後の行間の一瞬でそう思いましたが、そりゃ断りますよね。
さすがに無理です。朝だし。
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