ラーメン、ラーメン、ラーメン

 駅からそれほど離れていないところにその中華料理店はあった。閉じられたシャッターの並ぶ商店街から一本路地へ入った目立たない場所にある店の中には、少し埃っぽいような夏の臭いと、ごま油の焦げる臭いが立ちこめていた。
 昼時を過ぎていたせいか店の中はがらんとしていて、僕のほかに客は二人しかいなかった。どちらも何度か顔を合わせたことのある客で、テーブル席が空いているのに、なぜか二人はカウンターに座ってそれぞれ同じスポーツ新聞を広げながら料理が出てくるのを待っている。僕は二人に軽く会釈をしてからテーブル席に腰を下ろした。
 カウンターの向こう側では、白い帽子をかぶったいかにも中華料理人といったオヤジさんが、大きなお玉とヘラを持ち替えながら火に掛けられた中華鍋に手際よく食材を投げ込み、その横で奥さんが黙々と皿を洗っている。「いらっしゃいませ」アルバイトの男の子が水の入ったコップを載せたお盆を静かに運んできた。テーブルの中央にそっとコップを置いて、ホッとしたようにお盆を脇に抱える。
「ご注文は?」そう言ってテーブルの横に掛けてある注文票を手に持った。ゆっくりとした動きだった。二十歳前後に見えるが実際の歳はわからない。いつも彼はゆっくり動く。いるのは昼だけで、夜に見かけることはない。
「じゃあ、Bランチを」
「はい、Bランチですね」彼は笑顔でそう答えると、僕の注文をゆっくり書き込んだ。注文票にはあらかじめ、大きな字で3と書いてある。
「大将、3番Bランチです」カウンターへ一歩近づき、書いたばかりの文字を確認するようにしっかり見ながら、彼は大きな声でメモ読み上げた。
「はいよ3番さんBランチ」大将が応えた。
 注文を伝えたあと男の子はカウンターの前に立ち、オヤジさんが料理をつくる様子をぼんやりと眺めているようだった。次の客が来るまで彼にはやることがない。客に水を出すことと注文を取ることだけが彼の仕事で、料理を運ばないのは、料理を見てもそれが何なのかがわからないし、どのテーブルが何番なのかも覚えていられないからだ。だから、できあがった料理を運ぶのは奥さんの役目になっている。
 料理ができるのを待つ間、僕は目の前に置かれたコップのまわりに水滴がつくのを何となく見ていた。
 ふいにガラス戸が開かれて一人の男性が入って来た。派手なアロハシャツにサングラス。きっと冬でもそういう格好をしているのだろうと思わせる雰囲気たっぷりの男性は、首をかくっと捻ってから店内をぐるりと見回した。「何だよここ。店の中も暑いじゃねぇかよ、おい」
 ガタン。男性はわざと大きな音を立てるようにして椅子を乱暴に引き、僕のすぐ正面にあるテーブル席に座った。この手の人はなぜかいつも不機嫌だし、機嫌のいいときでも不機嫌そうにふるまうのだ。カウンターの二人は男性をチラリと見てから再びスポーツ紙に目を戻す。関わり合いになりたくないと背中で主張していた。
「もっとクーラーかけろってんだよ、なあ」
 どうやら僕に話しかけているようだったが、特に答えを求めているわけでもなさそうなので、僕は男性と目を合わせないよう少しだけ体を横に向けた。男性は両手でテーブルをパンパンと叩き、アルバイトの男の子に向けて顎をしゃくった。面倒くさいなあと僕は思った。強面を装ってはいるのだけれども、本当に怖い人はこんなふうに威嚇をすることはない。
「いらっしゃいませ」男の子が水の入ったコップをそっと置いた。男性は黙ったままコップを手に取り水を一口飲んだあと、壁に貼ってあるメニューを見上げた。
 男の子は注文票とペンを持ち、その場に立っている。
「なんだかあんまり食いたいもんがねぇなあ」男性はわざわざ大声でそう言い、また首をかくっと捻った。だったら何も食べずに帰ればいいじゃないかと僕は思うのだが、もちろんそれを口に出すわけにはいかなかった。言えば間違いなくややこしいことになる。
「ご注文は?」男の子が訊いた。カウンターの向こう側でオヤジさんが体を固くするのがわかった。
「ああん? ラーメンだよ。ラーメン、ラーメン」男性はなぜか怒ったような口調でそう繰り返したあと、チッと舌打ちをした。
「はい。ラーメン三つですね!」男の子が明るく答える。何の躊躇いもなかった。
 それを聞いて、僕は思わず噴き出しそうになった。
「ああ? 違うわ! 一つだよ、一つ!」慌てた男性が声をあげた。「え?」
 男の子がわざと言っているのか、それとも本当にそう思ったのかはわからないが、どちらにしても男性があの手この手で醸し出そうとしている、いかにもそれ風の強面な態度はまるで通用していなかった。まちがいなく男の子のほうが強かった。
「そりゃそうだろ。バカかお前。一つだよ、一つ、一つ!」
「はい。一つ、一つ、一つ」
「だから、ラーメン一つなんだよ!」男性の声が裏返った。
 ふと見ると、カウンターに座る二人の肩が小刻みに震えている。
 男の子はゆっくりメモを書き込み、カウンターへ一歩近づいた。
「大将、4番ラーメン一つです」
 彼がカウンターの奥へ向かって大きな声でメモを読み上げるとオヤジさんは黙ったまま頷いた。僕にはその口元が少しだけ緩んでいるように見えた。

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