弁慶

9月1日発売の新刊『どこでもない場所』に収録したエッセイを公開しています。(10分の10本め。)


 迎えの車は当時僕が働いていた仕事場のあるビルまで来てくれる約束で、到着したら電話をもらう手はずになっていたのだが、約束の午後三時半を過ぎても一向に連絡は来ず、とっくに旅支度を終えていた僕はイライラし始めていた。フライトは七時なので五時までに空港へ着けばいいし、まだ十分に時間はあるのだが、大きくてややこしい荷物を持ち込むので、できれば早めに到着したかったのだ。

 ようやく電話が架かってきたのは四時を少し回ったころだった。

「今、正面ですか?」

 ビルの入り口は複数ある。僕はスーツケースを手元に引き寄せながら聞いた。

「それが、大変なことが起きてしまったんです」電話の向こうで先生が暗い声を出した。

「どうしたんですか?」

「車が動かなくなったんです」

 先生は現代美術作家で、オーストラリアで開催されるアートフェスティバルからの招待を受け、現地でいくつかの作品を展示する予定だった。僕は先生のアテンドと現地での手伝いを頼まれていて、この日、先生は自分の作品を積んだワゴン車で僕を迎えに来ることになっていた。

「思っていたよりも荷物が重かったみたいでね」先生は淡々というが、内心ではかなり焦っているようだった。

「もうダメかもしれない」

「大丈夫です。なんとかしますから、先生はそこにいてください」

 先生の居場所を聞いた僕は、分厚い電話帳を繰って、その周囲にあるレンタカー屋へ次々に電話を架け始めた。まだネットで検索できる時代ではない。

 ところが、どういうわけかワゴン車もトラックもすべて予約で埋まっているのだ。僕は頭を抱えた。金曜の午後にそんなにトラックが必要なのか。先生の作品はそれなりに大きなものばかりで、さすがに普通車には載せられない。ともかく現場に行って状況を確認しよう。なんとかするのが僕の役目だ。僕はタクシーを拾い、先生の車が停まっているという場所へ向かった。タクシーの中から劇団関係者やイベント業者など、トラックを持っていそうな友人や知人に電話を架けるが誰も出てくれない。

 ポツリ。タクシーのフロントガラスに水滴が落ちた。雨が降り始めていた。

 タクシーを降りると、先生は自分のワゴン車の前で何やら大きな声を出していた。ワゴン車のすぐ後ろには青色の軽トラックが停まっていて、男性が二人掛かりで巨大な箱を積み替えようとしているところだった。

「先生」

「おお。車が壊れたって車屋に文句を言ったら、代車を出してくれたんだよ」

 なんとか積み終えた荷物の上にブルーシートが掛けられる。

「軽トラってのは、かわいくていいな」

坊主頭に作務衣という出で立ちの先生は、さっきまでの沈痛な雰囲気とは打って変わった明るい声を出した。

 青色の軽トラックはところどころ塗装が剥げ落ちて錆が浮いていた。ひと言で言えば、オンボロという表現がふさわしい。

「よし行こう」壊れたワゴン車は車屋に託し、僕たちは急いで軽トラックに乗り込んだ。先生がハンドルを握る。時計を見ると午後五時近かった。

「先生、時間がありませんからね」

「わかってる、わかってる」

 通常、国際線の搭乗手続きは二時間前までと言われているが、実際には一時間前までならギリギリなんとかなることを僕は知っていた。それでも、もう一時間しかない。

 先生がアクセルを踏み込むと、軽トラックは甲高いエンジン音を上げ、ガタガタと揺れながらゆっくりと発進した。

 幹線道路からまもなく高速道路へ差し掛かろうかというところで、いきなり雨が激しくなった。オンボロ軽トラックは防音などされてない。車の屋根に雨が当たってカンカンとカリンバのような音を立て、ザーザーというノイズがその隙間を埋め尽くす。雷が光り、遠く近くで雷鳴が轟いた。ワイパーを最速にしても前が見えないほどの豪雨で、まるで水の中を走っているようだった。地面が川になると、タイヤを取られないようノロノロと走るほかない。

「あああ、ダメだ。もうダメだ。間に合わない」

 慣れていない車を運転しているところにこの豪雨。先生はまたしても泣きごとを言い始めた。

「大丈夫です。なんとかなります。運転、僕が代わります」

 たぶん悪路に慣れている僕が運転するほうがよさそうだった。路肩に車を停めて、素早く席を入れ替わる。ほんの一瞬外に出ただけなのに、二人とも全身がずぶ濡れになった。

 高速道路に入ると僕はアクセルをベタ踏みした。荷物が重いせいか、それでもあまり速度は出ない。相変わらず雨は酷かったが、一般道に比べれば高速道路はずいぶんと運転がしやすい。とにかく少しでも時間のロスを取り戻さなければならなかった。

「先生、航空会社に遅れるって連絡してください」五時を過ぎていた。

「ああ、そうだね」

 ネットでのチェックインなどない時代には何をするにも電話が欠かせないのだ。

「待ってくれるらしい。さすがだな。さすがだよ」

 何がさすがなのかはわからないが、電話を切った先生は一人で何度もうなずいた。

 高速道路に入ってからは、ずっと順調に走っている。このペースなら六時過ぎには着けそうだ。なんとかなったぞ。僕もようやく肩の力が抜けた。

 先生と出会ったのは半年ほど前のことで、作品づくりを手伝ったのがきっかけだった。先生の作品は音楽と美術と機械が複雑に絡まっているものが多く、先生自身はこれをある種の楽器なのだと言い、実際に演奏するところまでを含めて一つの作品になっていた。

 今回、オーストラリアへ持っていく作品の一つは、直径二十センチ、長さ一メートルほどの金属の筒にオートバイのハンドルが取りつけられている楽器で、アクセルをひねると電子音が鳴り、同時に、筒の先端にあるミラーボールが回転する仕組みになっていた。これを腰に装着して演奏すると、かなりエロティックな格好になる。

 軽トラックは順調に高速道路を走っていく。重い荷物を積んでいる上に、激しい雨が降っているから、急ブレーキだけは避けなければならない。僕は車が水溜りに突っ込まないよう懸命に目を凝らしながら、それでもアクセルはベタ踏みにしたままだった。

 五時五十分。遠くに緑色をした出口表示が見えてきた。

「あと二つです。あの出口を過ぎたら次は空港です」

「いやあ。一時はどうなることかと思ったけど、なんとかなりそうだなあ」

 先生は歌を歌い始めた。加山雄三の「君といつまでも」で、歌っているうちにかなりご機嫌になった先生は、間奏のセリフまで完全に再現した。

 バアアンッ。突然、車の前方から、何かがボンネットにぶつかったような金属音が聞こえた。けれども、実際に何かが車にぶつかったわけではなさそうだった。雨で見辛くなっているとはいえ、ボンネットに何かが当たればきっと目にしたはずだし、衝撃も一切感じてはいなかった。

「今の音はなんだったんでしょうね」僕がそう口にする前に、軽トラックのスピードが急激に落ち始めた。おかしかった。いくらアクセルを踏んでも速度が上がらない。

 カツン、カツン、カツン。まるでアクセルペダルがすっぽ抜けてしまったように、何度も床に当たって乾いた音を立てる。

「先生」僕は自分の声が必要以上に硬くならないよう気をつけながら言った。

「どうしたんです」

「車、壊れたみたいです」

 ボンネットの隙間から白い煙が上がり始めていた。重い荷物を載せたまま長時間アクセルをベタ踏みし続けたせいで、エンジンにかなりの負荷が掛かっていたのだろう。

 僕の旅にトラブルはつきものなので、ちょっとやそっとのトラブルには驚かないし、たいていのことであればなんとかなると思っているのだが、それでも、まさか代車として用意してもらった軽トラックまでが壊れるのは予想外だった。

「どうする。どうするんだ。ああ、もうダメだ。やっぱりダメだったんだ」先生はぎゅっと目を閉じた。ゆっくりと首を左右に振る。確かに万事休すに近かった。

 僕はギアをニュートラルに入れ、ハンドルを切って軽トラックを路肩に寄せた。すぐ先の出口まで四百メートル。今までの惰性で走っているうちに、できるだけ距離を稼ぎたかった。ここで止まってしまったら対処のしようもないが、高速道路の外にさえ出られたら、なんとかなるかもしれない。高速道路の出口を考えると、この次が空港なのだ。ジャンボタクシーがいいのかレンタカーがいいのかはわからないが、手段を見つければ、まだなんとかなる。

 軽トラックは路肩を惰性でゆるゆると進んだあと、出口への分岐へゆっくりと入って行き、料金所へのランプに差し掛かる直前でついに停まった。道は僅かな上り坂になっていた。惜しかった。この坂さえ越えていれば、料金所までは下り坂なので問題なく進めたはずだった。

「先生、交代を」

僕は車を降りて軽トラックの後ろに回った。手で押すつもりだった。危険行為だから絶対にやってはいけないのだけれども、車は出口への分岐の途中で停まっているのだ。ここに停めるのだって同じくらい危険なことなのだと僕は自分に言いわけをした。

 先生が運転席に乗ってハンドルを握るのを待ってから、僕は車の荷台に肩を当て、スクラムを押すときの要領で力を入れた。軽トラックは思った以上にあっさりと動き始めた。それでも力をかけ続けていないと前には進まない。大雨の中、ずぶ濡れになりながら僕は軽トラックを押し続けた。手にも顔にも服にも泥のような黒い油がついた。たぶん五十メートルほど押したと思う。やがて車はランプの下りに差し掛かり、ゆっくりと速度を上げ始めた。

 料金所で一度停まり、先生が代金を払い終わると、僕はもう一度車を押し始めた。料金所のおじさんは、どうやらそこまで普通に走って来たと思っていたようで、車の後ろで息を切らしながら必死で押している僕を見て、驚いたような顔を見せた。

 料金所を抜けると、また緩やかな下り坂になっている。僕の手を離れた車はしばらく先まで進むと、路肩ギリギリに寄って停まった。

「先生」僕は運転席の窓に近づいた。

「今度こそダメだ。もう完全にダメだ。お手上げだ」

 泣きごとを言う先生が僕は面倒くさくなった。ここまで僕は必死で運転して遅れを取り戻し、さらに停まってしまった車をドロドロになりながら押したのだ。先生だって何かやってくれと思った。先生は機嫌よく歌っただけじゃないか。

「先生、車屋に電話して、この辺に知り合いがいないか聞いてください」

「いや、もう無理だよ。ダメだよ」

先生が車から降りてきた。どこで用意したのかビニール傘を差している。

 僕は時計を見た。六時二十分。確かにダメかもしれない。僕は壁にもたれ掛かった。今からレンタカー屋を見つけて車を借りる手続きをして、荷物を載せ換えて空港へ向かう。どう考えても三十分でできることではなかった。レンタカー屋を見つけても、そこに着くだけで時間切れになってしまうだろう。雨は少し小降りになったが、もうどうでもよかった。ここまでなんとか諦めずに来たけれど、さすがにもう終わりだ。僕は濡れたまま地面を見つめた。

「そうだ。航空会社に電話を」

 自分たちが諦めるにしても、周りに迷惑をかけてはいけない。状況を説明してフライトをキャンセルしたほうがいい。そう言おうと顔を上げた僕の視界の中に先生はいなかった。

 いつの間にか先生は高速道路の出口の前で仁王立ちをしていた。足元に白いビニール傘が転がっている。

 ちょうど四トントラックが料金所を抜けて出て来ようとしているところだった。銀色の車体には青い色で魚の絵が大きく描かれていた。すぐ後ろには白いワゴン車が続いている。

「停まれえ! 停まれえ!」先生は叫んだ。

 僕はぼんやりとその光景を見ていた。

雨の中、ずぶ濡れになった坊主頭の男が両腕を上げ、トラックに向かって絶叫していた。糸のように降り注ぐ雨は、まるで先生に突き刺さる矢のようだった。雷光が先生の姿を一瞬シルエットに変える。弁慶の立ち往生ってこんな感じだったんだろうと僕は場違いなことを思った。

 トラックが停まった。

「どうしたんすか?」運転手が窓から顔を出す。

「空港へ! 空港へ行ってもらいたいんです!」先生は叫んだ。

 あわてて僕が近づき説明をする。車が壊れたこと、大きな荷物があること、フライトが七時だということ。まだチャンスは残されている。

「よっしゃ」運転手が降りてきた。後ろのワゴン車からは若者たちがぞろぞろと降りてくる。同じ現場で働いている仲間だと言う。

「おい、積め」運転手の号令でブルーシートが剥がされ、あっという間に軽トラックの荷物が四トン車に載せられた。先生が航空会社に電話を架ける。

「俺たちが着くまで待ってくれるらしい」先生は勝ち誇ったような声を上げた。

 あとからわかったのだが、先生はオーストラリア政府から正式に招かれた要人扱いになっていて、どうやら航空会社としては待たざるを得なかったらしい。

 魚のトラックは七時ちょうどに空港の出発ロビーへ横付けされた。荷物を下ろそうとする先生に運転手が怒鳴る。

「俺たちが下ろすから、あんたは先に手続きに行きな」

 僕たちはロビーを抜けて航空会社のカウンターへ走った。六、七人ほどの空港職員が僕たちに向かって手を上げ、僕も彼らに向かって大きく手を振った。

 僕の緊張はそこで解けたのだろう。そこから先はまるで夢のような朧げな記憶しかない。

 現代美術の作家とそのアテンド係が現れると思っていたところに、雨と油でドロドロになった男が二人現れたことに航空会社の地上職員たちが明らかにショックを受けていたこと。

 荷物の重量が百キロ以上もオーバーしていて、これは載せられないと言われて怒った先生が、スーツケースの中に入っていた服をすべてその場に捨てようとして職員に叱られたこと。

 飛行機の中に入った途端ドアが閉められ、機体が動き始めたこと。そして、出発が遅れた原因を見つめる乗客たちの視線が冷たかったこと。

 僕の旅にトラブルはつきものだけれども、ここまでヒヤヒヤした経験は他にあまりない。トラブルがいくつも重なると、僕たちはつい挫けそうになる。それでも僕たちは間に合った。何度も泣きごとを言った先生が、最後の最後で仁王立ちした。あの執念が僕たちを間に合わせた。そう。諦めさえしなければ、たいていのことはなんとかなる。それが一番大切なのだ。



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『どこでもない場所』

9月上旬刊行のエッセイ集『どこでもない場所』(左右社)の案内やメイキングなどのあれこれをまとめるマガジンです。たぶん出版社の担当編集者もいろいろ書きます。書籍内容の無料公開もここで予定しています。また、いま絶賛募集中のインタビューのうち、noteに公開された記事はできればこ...
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コメント1件

読みながらわたしも途中で諦めました。「こりゃだめだろ!」でも諦めなかったお二人に勇気をいただきました。ありがとうございます。そして不思議な楽器とそれを演奏する、弁慶のような先生が気になって仕方ありません。謎は深まるばかりです……。これからもたのしみにしております。
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