どこでもない場所書影用

すべての道は

9月1日発売の新刊『どこでもない場所』に収録したエッセイを公開しています。(10分の9本め。)


 コンパスの針は常に北を指す。聞くところによると、動物にもコンパスのような能力があるらしく、渡り鳥が方角をまちがえずに長い距離を飛べるのも、遠く外洋を回遊した鮭が生まれ故郷の川へ戻って来られるのも、体内にあるコンパスのおかげなのだという。どう贔屓目に見ても僕にはまったくない能力だ。

 と、ここまで書いてから、ふと引き出しにしまっていたコンパスを取り出して机の上に置いてみると、北を指すはずの磁針はゆっくり回転したあと、なぜか南西を指して止まった。これは変だぞと振ったり回したり、いろいろと試してみるが、何度やっても針は南西を指すものだから、とうとう笑ってしまった。まったく理由はわからないが、どうやら僕のコンパスは北を指してはくれないらしい。こうなると、僕がよく道に迷うのも当然だという気がしてくる。

 気圧の影響か天候のせいか、はたまたストレスから逃れた開放感からか、西ヨーロッパを訪れるたびに、僕は全身からふっと力が抜けるような気がする。体が軽くなるだけでなく、猫背気味の背中はシャンと伸びるし、いつもうっすらと感じて僕を悩ませている頑固な肩こりさえ消えてしまうから不思議だ。

 ヨーロッパの街はどこも好きだが、中でもパリは昔から大好きな街の一つで、パリが好きだと言うと、すいぶんミーハーだなんて笑われそうだが、やっぱりパリは素敵な街なのですよ。

 もちろんテレビや雑誌などで取り上げられているオシャレなパリばかりではなく、汚く荒んだパリもある。

 中心部から離れるとかなり治安は悪くなるし、日本ではほとんど見かけることのない物乞いの人たちだってあちらこちらで見かける。しばらく滞在していたときには、若者たちが車を燃やしている現場に何度も遭遇したし、借りていたアパートの前で数人の男たちが派手な殴り合いをしていて、怖くて家に帰ることができず、ぶらぶらと時間を潰したこともある。

 鉄道の窓口や郵便局、役所といった公共施設の対応はそっけなく冷たいし、観光都市なのに他所者を拒むようなところもあるから、手放しですばらしい街だとは言い難い。

それでも僕はパリが好きだ。そこに漂う佇まいというか、あの街から感じられるある種の思想のようなものが好きなのだ。

 パリは僕を僕のまま放って置いてくれる。自分のことは自分で決める代わりに、他人のやることにはできるだけ余計な口出しをしないという態度が心地よい。


 世界のどこへ行ってもすぐに道に迷うことになる僕は、もちろんパリでも道に迷う。

 ヨーロッパの古い街はだいたい全部似ているから迷わないほうがおかしいし、別に生きて帰れないような環境でもないので、たとえ迷ったとしてもいちいち慌てる必要などない。たぶんこっちだろうと適当に方向を決めて淡々と歩いていればそのうちにどこかに着く。

 大通り沿いに建ち並ぶ石やレンガやモルタルでつくられた建造物の外壁には、はっきり目立つように施された派手な装飾のほかに、誰にも気づかれないようにこっそり設えられた装飾などもあって、そんな装飾を探しながらのんびり歩いていると、しだいになんとなく知っている場所のような気がしてきて、そしてやがて目の前にあのオペラ座が現れる。ここで僕の言うオペラ座とはバスティーユにある新オペラ座ではなく、昔からあるガルニエ宮のほうです。

 どういうわけかパリで道に迷うたびに僕はオペラ座に着く。歩いているときだけではない。バスや地下鉄に乗っていても、迷ったときにはなぜか必ずオペラ座に着いてしまうのだ。

 そこへ向かっているつもりはないのに、人に道を聞いて教わったとおりに歩いていると、オペラ座の白い壁が目に入ってくるし、待ち合わせ相手からもらったメールを頼りに約束の場所へ向かう途中、何気なく首を回すと数ブロック先に例のオペラ座の怪人が見えている。

 あまりにもしょっちゅうオペラ座に行き着くものだから、つまりまあ、それだけ僕がしょっちゅう迷子になっているということなのだが、ほかのどの区よりもオペラ座の周辺だけは詳しくなってしまったほどだ。

 もともとパリは放射状につくられている街だから、大通りをてくてく歩けばいずれ中心部に行き当たるのは当然といえば当然なのだけれども、反対方向に進めばぜったいにオペラ座に着くことはないし、オペラ座が全体の中心というわけでもないので、どうにも不思議でならない。

 しかも、オペラ座に着くのは道に迷ったときだけではないから、謎は深まる。

 いつだったか、パリに滞在しているときにパソコンが壊れてしまったことがある。いくら電源を入れ直そうが叩こうがまるで動かず、これでは仕事にならないと困り果てて、よしもう買い直すほかないと心を決め、急いでパソコン店へ向かうことにした。調べると僕が使っているパソコンの販売店はオペラ座のすぐ裏にあるのだ。もしも他のメーカーの製品を使っていれば、オペラ座へ行くことはないのに、やっぱり僕はオペラ座へ向かうことになるのだ。

 日本から遅れて到着した番組スタッフを迎えに行くことになり、どの駅で会うのが一番効率的だろうなんてことを考えながら宿で待っていると、携帯電話にメッセージが届く。

「空港からバスに乗りました」

「了解です。どこに着きますか?」

「八時にオペラ座です」

 ほら、またオペラ座だ。どうしたってオペラ座なのだ。

 こうしてパリにいる間、とにかく僕は何度も何度もオペラ座へ行くことになる。パリは僕を僕のまま放って置いてくれる街なのに、なぜかオペラ座にだけは向かわせようとする。

 もう僕に言わせれば「すべての道はオペラに通ず」だし、こうなったら一度くらいはオペラ座で、ばっちりオペラを観劇するべきじゃないかという気にもなってくるわけです。


 今まで僕はいろいろな職を転々としてきた。もともと何かを断るのが苦手ということもあって「今何やってるの? ちょっとうちを手伝ってくれない?」なんて言われると、声を掛けられるまま誘われるがまま、たいして深く考えることもなく「ええ、いいですよ」と、行き当たりばったりに職を変えてきた。けれども振り返ると、そこに一貫性がまったくなかったわけでもなさそうだ。

 僕に声を掛ける人たちだって、僕に何ができるのか、あるいは僕には何ができそうなのかを考えて声を掛けるだろうし、僕だって絶対にやりたくないことは断るから、なんとなく同じようなジャンルの仕事をすることになったのだろう。

 音楽、美術、映像、広告、デザイン、イベント、演劇、ゲーム、放送、小説。自分で積極的に選んだわけじゃないが、これまで僕のやってきたことは、大きく括れば同じ方向にあるものばかりで、そして、これはこじつけなのだが、どれもオペラの要素に含まれるものばかりだ。

 音楽と演劇が、美術と文学が、歴史と現代が、人工物と肉体が互いに混じり合い、観客を魅了するオペラは究極のエンターテイメントの一つだし、歴史ある興行の一つだ。

 それはパリに暮らす普通の人々にとっても日常的な出し物ではない。日ごろは慎ましく暮らしている人々が年に数回、ときには数年に一回、少し奮発して着飾り、楽しみに出かけるイベントなのだ。オペラを観なくても人は生きていける。でも、その日オペラを観た時間は、その記憶は、たぶんそのあとの人生にずっと残り続ける。それがエンターテイメントの力なのだし、僕たちが生きていく上で、その力はわりと大切なものだと思っている。

 今すぐ目に見えて役に立つものじゃないけれど、いつか役に立つかもしれないもの。毎日の緊張に疲れてしまったとき、ちょっとした支えになるもの。自分のことを自分で決めようとするときに指針になってくれるもの。僕は自分でも知らないうちに、ずっとその方角に向かって歩いて来たのだろう。

 すべての道はオペラに通ず。

 道に迷うたびに僕がいつもオペラ座へ着くのは、もしかすると必然なのかもしれない。僕の体内コンパスはかなりのポンコツで、けっして北を指してはくれないくせに、人生の大きな方角だけは、きっとぼんやりと示してくれていたのだ。

 僕はまだオペラ座でオペラを観たことはない。でも、いずれ観ることになるのだろうという予感だけはしている。


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