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ブラッド・ピットは気づいた。|M通信

担当の守屋さんが『どこでもない場所』のこぼれ話を書いてくださっているので、その補足というか、返信のようなものを書いてみた。(鴨)

 最初にお話をいただいたのは六月だったらしい。たしか十月くらいだったかな、なんて思っていたのに、まさかもう一年以上も前だったとは、子供のころに比べると、本当に月日の流れるのが速くなったなあと驚かされる。
 十歳の少年にとっての一年は人生の十分の一にあたるけれども、今の僕にとってみれば僅か四十数分の一しかないのだから、同じ一年を短く感じるのは当然なのに、それでもやっぱり驚くのは、今の年齢を体験するのが初めてだからなのだろう。たいていの人は自分の年齢に気持ちが追いついていない。少なくとも僕はそうだ。

 大勢で食事をしながら僕は自転車屋の前にぼうっと座っているおじさんの話をしていた。
 おじさんは自転車屋などではなく、いつもただそこにジャージ姿で座っているだけで、それでもタイヤの空気が抜けた自転車を持っていくと空気を入れてくれたし、自転車屋の大将も特に何も言わずおじさんが空気を入れるのを黙って見ているのだった。
 それこそ僕が十歳の少年だったころには街にそういう大人たちがたくさんいて、僕はそんな大人にどこか憧れていたし、今でもできればそうなりたいのだというような話をした。近所の子供たちから、あの人はいったい何をしているのだろうと怪しまれる大人が僕の理想像なのだという話をした。
 食事を終えてぞろぞろと店を出た繁華街の交差点で、信号が変わるのを待ちながら、守屋さんからエッセイは書かないのかと聞かれ、僕はエッセイはあまり書かないしエッセイ以外だって書けないんです、とにかく僕は締め切りが守れないダメ人間で迷惑をかけるばかりだから本当は何も書いちゃいけないんですと強く言ったつもりだったのに、なぜかそのあと「何でもやります」なんて返事をしていたらしいから、これはもう相当なうっかり者である。
 そもそも「働かない働き方」という記事には、僕はもう働きたくないのだ、一生懸命に働くなんて間違っていると思うのだということを一生懸命に書いたはずなのに、それを読んで発注するというのは、今考えると何か根本的に間違っているような気もするのだが、まだ僕はその間違いに気づいていなかったし、たぶん守屋さんは最初から気にしていなかった。
 うっかり受注した以上、僕としては何らかの形にしなければならないわけで、けれども僕が日々考えていることや僕の日常なんかに、はたして読み物としての需要があるのか、左右社は赤字にならないだろうか大丈夫だろうかという心配が真っ先に浮かんでくる。中身を一文字も書いていない段階から僕はそういう余計な心配をしてしまう。そして、もちろん書いたあとには、もっと心配することになる。
 ともかくそういう流れで僕は書き始めることになり、ちなみにこういうエッセイが好きなんですと守屋さんに渡された参考資料は、エッセイの名手と呼ばれる作家たちの、その中でもさらに傑作と言われている作品ばかりで、もうぜんぜんちなみになどではなく、こんなの書けっこないよ、どうか許してくださいと、僕を激しく畏れさせたのだった。
 事前の打ち合わせでは道に迷った話をして、案外ウケていたからそれを書けばいいのに原稿用紙を前にして僕は頭を抱えた。万年筆にお馴染みのインクを補充して、さあ最初の一文字が書き出せない。ふと気がついたら、ブラッド・ピットというサインの練習をしていた。しかもカタカナで。いったい僕は何をやっているのか。
 名手たちの傑作に今さら狼狽してもしかたがないのに、変に対抗して、ちょっとした風刺やら上手い文章やら気の利いたことやらを書こうと欲を出すものだから、どう書けばいいのかがわからず迷いに迷っているのだ。
 僕はコーヒーを淹れて飲み、窓の外をぼんやりと眺め、もう一度コーヒーを淹れて飲んだ。何か事件でもあったのか、ヘリコプターがバリバリと窓ガラスを震わせながら頭の上から現れてビルの影に消えていった。壁際にはスーツケースが横を向いて転がっている。そろそろ次の旅支度を始めなきゃ、なんてことを思った。
 はたしてよくよく悩んだ揚げ句に、考えてみれば僕はしょっちゅう迷い混乱している者なのだから、せめてこの困惑をそのまま書けば何とかなるかもしれない、よし、そうしようと決めた。当たり前の話だが、僕は僕に書けることしか書けない。さんざんサインの練習をしたあと、ようやくブラッド・ピットはそのことに気づいたのだった。

 さて、この先どう展開したのかは、きっとまた守屋さんが書くはずです。

 ところで、小さなメモ帳に僕が何を書いているのかは秘密になっていて、でも、メモしたものを見返すことはほとんどないとだけ言っておきます。

9月1日刊行のエッセイ集『どこでもない場所』の本文や制作のこぼれ話をこちらのマガジンで公開中です。全20編のおよそ半分くらいとページ数の関係で収録できなかった数編が少しずつ公開される予定になっています。いつ、どの話が公開されるのかは僕も知らないので密かに楽しみにしています。もし感想などを書いていただけるようでしたら、ぜひ #どこでもない場所 のタグづけをお願いします。
訪問してもいいよという書店のみなさま、(プロアマ問わず)取材などご検討くださるみなさま、左右社までご連絡ください。浅生鴨公式ホームページの応募フォームからも受け付けています。

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いつだってエブリデイ!
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浅生鴨

たいていのことは苦手です。

『どこでもない場所』

9月上旬刊行のエッセイ集『どこでもない場所』(左右社)の案内やメイキングなどのあれこれをまとめるマガジンです。たぶん出版社の担当編集者もいろいろ書きます。書籍内容の無料公開もここで予定しています。また、いま絶賛募集中のインタビューのうち、noteに公開された記事はできればこ...
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