ぼうえんきょう座の話

前回に続いて星座の話となる。今回はぼうえんきょう座である。

もちろん、望遠鏡が発明されたのは近世だから、この星座が近世になって新たに作られた星座であることは、論を待たない。

望遠鏡を発明したのはガリレオ・ガリレイだとうっかり思われがちだが、これは少し違う。望遠鏡という道具自体は、ガリレオが手にした時点ですでにあったのだ。特許が要求されたのは1608年のことだが、それより少し前から望遠鏡を発明した人はいたようだ。

それはともかく、ぼうえんきょう座を作ったのは、フランスの天文学者ラカイユである。1751年から52年にかけてケープタウンで南天の星図づくりをしに行った際にここに新しく星座を置こうと思ったものらしい。最初に登場する文献は1756年に制作された星図である。

このぼうえんきょう座は今でも現存する。日本からは南にごく低くしか見えないし、あまり明るい星もないのであえて見てみようという人もほとんどいないんじゃないかと思う。さそり座といて座の南…… さそり座やいて座自体、南の方はかなり見にくいので、それより南となればむろん非常に見づらい。沖縄などでは多少高くなるが、別に明るい星があるわけでもないのであまり実感できるものでもないと思う。

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実際の夜空で撮ってみたが、地平線がほぼぎりぎりまで開けていてやっと北半分。南半分も原理上はある程度は地上に上ってくるはずだが(北緯35度くらいで撮影)。

ただ、実は昔はもう少し見やすい星座だった。というのも、ラカイユが最初に制定した頃のぼうえんきょう座は今より大きく、北に長細くのびていたからである。そのため、地平線の上にもう少し高いところまでぼうえんきょう座の領域があったし、その一部は天の川にかかっていた。

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具体的にはこんな感じになっていた。いて座とさそり座の間をぬって、北の端は日本からまあまあ見えるくらいの高さに上ってくる。明るい星が少ないのには違いないが。


ラカイユがぼうえんきょう座を制定していた頃、最先端の望遠鏡というのは屈折望遠鏡だった。もちろん反射望遠鏡もあったが、鏡よりレンズのほうが性能が良かった時代である。

問題は、屈折望遠鏡というのは、対物レンズとしてレンズ1枚をつかっただけでは像のふちに色がついてしまう色収差が顕著に出てしまう、ということである。

中学校の時の理科の授業を思い出して欲しい。水に光を差し込むと、境界面で折れ曲がる。入射角と屈折角の関係、である。高校で物理を選択した人ならば、この2つの角度のサインの比が「屈折率」というものだという公式を教わったことだと思う。これは水じゃなくガラスでも起きることなので、これが表面の曲がったガラスでも起きることを利用して光を集めたり拡散したりするのが「レンズ」というものの機構である。

教科書で習う分には、光はきれいに曲がって見える。でも、実はこの屈折率は、光の色、つまり波長によって少し違う。波長が短いほど、屈折率は大きくなる。

物理の教科書か資料集に、プリズムの実験の絵が載っているのを見たことがある人は多いと思う。実際にやってみたという人もいるかもしれない。これは光をガラスの三角柱に入れることで、太陽の光が虹の七色に分かれて見えるというもので、いろいろな波長の光がまざった太陽光を分解してみようという実験なのだが、そもそもあれがなんで起きるかというと、ガラスの屈折率は波長によって変化するからだ。これがなかったら、プリズムを使って虹の七色に分けることはできない。いやそもそも「虹」そのものが水滴に入った太陽光の屈折率が波長によって違うことによって起きるのだから、これがなければ虹も見えない。

ただ、同じことはレンズでも起きるわけだ。だから、レンズを通して集めた光は、一点に集まるといっても実際にはすこし色によってばらつきが出る。そのため、レンズで結んだ像はふちが波長の上端である赤や下端である紫でにじんで見える。これが色収差だ。昔、祖母の老眼鏡のあまりレンズで作った望遠鏡は色がついていたのを思い出す。

この事情は今でも変わらなくて、今の屈折望遠鏡は少し材質が違うガラスを2枚(あるいはそれ以上)貼りあわせて作った「色消しレンズ」というものを用いていることが多い。材質が違うと屈折率が違うし、波長による屈折率の変化の仕方も違うので、色収差をある程度相殺してやることが可能になるのだ。更に高級なものになると、レンズを3枚貼りあわせたり、あるいは特殊な材質のレンズを使ったりして限りなく0へ近づけたものもある。この色消しレンズが発明されたのはちょうど1750年代なのでラカイユがぼうえんきょう座を制定した頃だが、ラカイユはそれより前から最前線で使われていた望遠鏡のほうを参考にしたようだ。


じゃあ、色消しレンズがなかったころ、天文学者はどうしていたのか。むろんごく初期は色がついていたのを我慢していたとしても、だんだんそれだと不都合も出てくる。

色収差というのはレンズの直径(いわゆる望遠鏡の口径)と焦点距離の比が大きいほど目立つ。いわゆる「F値」というやつだ。なので、Fが非常に大きい望遠鏡なら、単レンズでもなんとか実用できる望遠鏡が作れる。もちろん今のデジカメをくっつけたらダメだろうが、眼視で観察するぶんにはなんとかなる程度には持っていける。というわけで、色消しレンズがなかった頃は、屈折望遠鏡といえば非常にF値の大きなものが使うことで収差を下げていた。

今でも屈折望遠鏡のF値は比較的大きい。これは今でも屈折望遠鏡は色収差が残りやすいからである。天体写真用に使いたいときは露出時間が短くてすむFが小さいほうが有利なのでそういう望遠鏡もあるが、大抵は特殊なレンズを組み込んで非常に高価となる。昔、初めて使った望遠鏡は口径が6cmで焦点距離が910mmだった。F15あまりである。これはアクロマートだったと思うが、像に色がついて不便と思ったことはない。

ところが単レンズだと、これでも足りない。なので、収差の研究が進むにつれてFの値が200とか300の望遠鏡が作られ始めた。

ところで、例えば口径が20cmだとF300に必要な焦点距離は60mである。これを全部筒として作るのは、とてもじゃないが重くなりすぎる。重くなりすぎるということは、望遠鏡の操作が難しいということを意味するし、固定する架台への負担も大きくなる。バランスが悪いから、風などの振動にも弱い。
ということで、鏡筒を省略してしまい、長い一本の柱の両端に対物レンズと接眼レンズをくっつけてしまった望遠鏡、というアイディアが生まれた。ちょっと信じがたい構造だが、考えてみれば今でも天文台にあるような大望遠鏡は鏡筒は何本かの柱で代用されていることが多いし、一般用の望遠鏡でもドブソニアンといわれる観望用の大口径望遠鏡では鏡筒の一部が省略されている。それの極端なもの、と思えばよい。

17世紀から18世紀の前半くらいまでは、これが「最先端」の望遠鏡だった。軽量化したとはいえ操作が大変だったこともあり、ラカイユの頃には反射望遠鏡にお株を奪われつつあったが、それでも当時としてはこちらのほうを空に制定したいという思いがあったのであろう。ぼうえんきょう座として制定された星座絵は、空気望遠鏡をモデルにしていた。もっとも星座絵を見ると鏡筒がある気もするが……まあいずれにしても非常に長い望遠鏡であることは違いない。

ところが、困ったことにこの古いぼうえんきょう座は、当時の長い空気望遠鏡を再現するために元々他の星座の所属となっていた星からいくつか、このぼうえんきょう座の星座絵をつくるために切り取ってしまっていた。もちろん星座を作る主要な部分の星ではなかったが、19世紀のはじめになると空気望遠鏡の細長い姿を敢えてそこまでして再現する必要はないと判断されたのだろうか、この割り込んだ部分は元々の星座の所属に戻して、南の部分だけがぼうえんきょう座であるというように改訂されるようになった。

現在のぼうえんきょう座はこのころの改訂された星座を引き継いだものとなっている。なので、かつての北の部分はもともと属していた星座、いて座だったりさそり座だったりへびつかい座だったり、に戻された。
このいっとき横取りされていた部分は、上でも触れたように元の星座のはじっばかりで主要な部分を占めているということはさすがにない。でも、そこそこは明るい星も多少は含まれていたので、これらの星はそれまで、堂々とぼうえんきょう座の星として、バイエル名(いわゆるαとかβといったギリシャ文字や、それが足りないとアルファベットを使った名前)ももらっていた。

たとえば、いて座のη星は、その頃はぼうえんきょう座のβ星だった。これは結構明るい星なので、その気でたどればすぐ見つかる。

また、さそり座のG星は、γ星だった。さそりのしっぽのあたりは天の川のまんなかで、写真でも見栄えのするエリアである。このしっぽのすぐ東を、かつてのぼうえんきょう座が横切っていた。さそり座Gはしっぽのところに当たる星の一つである。星座線をつなぐときには使わないことが多いと思いますが。G星はギリシャ文字ではないが、さそり座のように大きくて星の多い星座だとアルファベットも使うことがある。

また、目立った名前のある星はないがみなみのかんむり座も当時のぼうえんきょう座の一部を占めていて、今は特にバイエル名などはない5等星がぼうえんきょう座σ星だった。

ぼうえんきょう座の北のはじはへびつかい座の一番南の部分にあたっており、へびつかい座のd星は当時はθ星だった。この星はちょうど対物レンズにあたっていて、いわばぼうえんきょう座の北端であった。ラカイユはこのぼうえんきょう座を割と真面目に星座絵として成立させたかったらしく、γ星は望遠鏡本体の途中にあたっているし、β星は望遠鏡の架台のトップ部分にあたっていた。どこらへんが名前にそぐうのかさっぱりわからない星座が目白押しの近代星座の中では頑張ったのはわかるのだが。いちおう、どんな感じの星が該当しているのか、はこの写真を見てほしい。なお、σ星は1800年ごろにバーデという人の星図を参考にして同定したが、この星図はへびつかい座dはへびつかい座の星として扱っているので(ぼうえんきょう座の星座絵だけかかっているような感じになっている)、多少文献によって対応が異なることもあるかもしれない。

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それにしても、これらの名前を見ても、どうもピンとこないと思われる向きが多いだろう。それは星に興味がない人だけでなく、天文ファンでもよくわからないはずだ。いて座ηやさそり座Gといわれても、どの星か、どんな星もすぐにはわからないと思う。星図と見比べたらあああのへんの星なのねと思うかもしれないが、それ以上の感慨もないと思われる。

実は、ここまで挙がっていない、かつてのぼうえんきょう座部分にあった有名天体がある。

上のさそりのしっぽの左(つまり東)、ぼうえんきょう座β、もといさそり座Gの真上と右上、星の集まりが二つほどあるのがわかるだろうか。これらは非常に明るい散開星団で、小さな双眼鏡でも簡単にその姿をとらえらることができる。M6とM7という星団である。

どちらも日本からは低く見づらいのだが、低緯度の地域や南半球などではもっと壮観となり、M7は高く上るところなら肉眼でも分かるといわれている。ローマ時代から星雲状の天体として知られていた。そのためだろう、このM7は、かつてはぼうえんきょう座ηという星としての名前が付けられていた。単独の星ではないことは昔から知られていたわけだし、そもそもぼうえんきょう座の名付け親であるラカイユはこの星団が星の集まりであることを観測した記録が残っているので、別に星と見間違えたというわけではないようだ。
つまり、もしぼうえんきょう座の範囲の見直しが行われてなかったら、この2つの星団はぼうえんきょう座の星団、だったのである。

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