強迫性障害が辛い

落とした小銭を拾った。

その店の床は、というより「外の地面」というものは、見知らぬ誰かが、何処を歩いたか分からない靴裏で往来している。

公衆便所に入ったり、見知らぬうちに誰かの唾を踏んでいたり。

僕は、その可能性が十分に宿っている店の床に落ちた小銭を拾ったのだ。

呼吸を忘れる。息苦しさが身体にも心にも訪れる。内側が酷く不愉快な放射性重力で満ちあふれる。中心に重力の大きな核が発生し、内側から外に圧力をかける。不安定と揺れ動く精神。こわばる顔。滅入る、滅入る。

「小銭は不特定多数の人間が、どう扱ったか不明のものだ」ーーーだから、酷い不潔の人間が使ったかも知れないのだから、食べるなんてもってのほかだと、以前、何も分からなかった子供の自分に教えてくれた母。今では「汚れなんて気にしてられない」といって仕事に切羽詰まっている。おかげで母宅は、弟も汚れにルーズなものだから、便所汚れは勿論、手を洗うまでに色々と触るものだから、あぁ、酷い内部に染まったものだ、と、僕自身は不幸を感じている。スイッチ然り、蛇口のひねり手然り、便所汚れが付着している。触れるかこんなもの。僕はそれを意識する。それを母と弟は「病気だ」と笑ってくるのだ。僕はそれがまた苦痛だ。

話を戻して、しかしその落とした小銭は、今すぐ捨てたい気持ちにかられつつも、その心を押し切って財布に入れておいた。

自分でも辛い判断に向かったものだと思う。というのも、最近は昔ほど、微々たるものだが思考が動くようになってきた。それでも微々たるもの、辛い、耐えられないと上述したように、まだ安心できるほどの有効ではないが。

一つ、小銭は汚いもの。一つ、暴露療法。一つ、汚れに意識するな。一つ、敢えてそのまま財布に入れろ。

考えられる限り、これだけだ。

だが手だけは許せなかった。すぐに店の公衆便所に行って、石けんを使って隅々気が済むまで洗った。財布に入れられただけでも褒めて頂きたい。というか、汚れた手で、財布にも触ったのだ。これ以上の無い苦痛への譲歩だろう。そう思っていると、隣の手洗い場で、老人が用を済まし、一秒だけ手を濡らして去って行く。傍目、僕は老人が、というより、そういった人種が信じられない。本当、あれは洗ったのではない。濡らしたの内にも入らない。老人は汚れに無頓着になるのが常だが、見ていて恐ろしいものだ。ーーー(しかし逆に皮肉か本心か、羨む気持ちもある)ーーーだが人間は老いればいずれそうなるのだろうと、まだ僅かながら理解できる。しかし、以前若者が手を洗わずに入り口の取っ手を掴んで出て行った。二番手として後から出て行く自分は「なにしてくれてんねん」と憤怒した。


あぁ、生きづらい。

すると他人は嘲笑って心底理解できない心で言うのだ。

そんな生き方してるからだと。


世の中は、汚れに寛容なほうが生きる優先権があるのだ。潔癖症であれ、病気であれ、それらに悩む人種は滑稽なのだ。扉の無い公衆便所入り口から出て、辛いまま思う。気にする方が馬鹿だとか、そもそも気にしないだとか、母のように僕みたいな人を笑い、自分は汚れを振りまいて、僕みたいな人を追い詰める。


だが考えて欲しい。


上述の小銭のケース然り。

また、外靴の紐。外履きのジーンズの足の裾から脛上部。男故、外出先の小便器から跳ね返った小便が付着した可能性が八割あるそこに触れないのは解せないものか?

公衆便の出口側の取っ手。手洗い場の捻らなければ、押さなければ流れないひねり手にあたる部分。また、大便をした後に触れる、トイレ個室の出る側から操作する扉。それ以前に、ズボンを下ろさなければ大便は出せないだろう? ズボンを下ろす? あぁ、道理だ。下ろす。するとどうだ、裾が地面に付くだろう? その上、用を足したらベルトを絞めるだろう? そのベルトを絞めた手は清潔か?


僕は耐えられない。















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