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北海道は清浄島ではないのか?

「ともぐい」で2023年下半期直木賞を受賞された川﨑秋子さんの「清浄島」を読了した。北海道に行ったことがない人ですら知っている「エキノコックス症」との戦いについて書かれた事実に基づく小説である。著者は根室管内の別海町の生まれで、いまは十勝に住んでいらっしゃるらしいので、生粋の道産子だ。私も根室生まれ・育ち(といっても、0-2歳と中1から中2にかけての短い期間だけだが)なので親近感がある。著者は1979年生まれということなので、私が根室の中学校にいた頃に生まれたことになる。本の中で使われている北海道弁はもちろん自然で、文字を読むだけでイントネーションまで伝わってきた。

昨日の朝、早くに目が覚めてしまったので、「積読」だったこの本をなんとなく読み始め、一気に引き込まれて、昼には読み終わってしまった。小説舞台は道北の礼文島。私が礼文島に行ったのは札幌の高校生だったときだからもう40年以上前になる。利尻富士に単独で登りに行ったとき、帰りのフェリーが立ち寄ったので、港周辺を散策しただけだが。この本の4/5 ほどは礼文島が舞台で後半根室だ。根室半島付近の描写はもちろん、植生や家屋の感じも似ている礼文島の描写や風景も、読んでいるだけでありありと思い浮かぶことができた。

エキノコックス症とは国立感染研究所のホームページの解説では以下のようにある

エキノコックス属条虫の幼虫(包虫)に起因する疾患で、人体各臓器特に肝臓、肺臓、腎臓、脳などで包虫が発育し、諸 症状を引き起す。ヒトには、成虫に感染しているキツネ、イヌなどの糞便内の虫卵を経口摂取することで感染する

https://www.niid.go.jp/

エキノコックス症は肝臓、稀に脳に幼虫が寄生し、嚢胞ができ、有効な治療法は外科療法しかなく、死に至ることもある病気である。中間宿主(幼虫が寄生)は主にはネズミで、終宿主(成虫が寄生)はキツネやイヌだ。ヒトに寄生するのはエキノコックス条虫にとっては何のメリットもなく、たまたま感染したキツネや野犬の糞中の虫卵で汚染された水・野草などを口にしたことで幼虫がヒトの内臓に寄生する。

ほとんどの人はエキノコックス症とはとにかく恐ろしい病気、というイメージしかないだろう。名前からして恐ろしげである。北海道に固有の病気というイメージだったが、最近、愛知県の知多半島の野犬でエキノコックス条虫が発見され(感染者がいたわけではない)、半ばパニックになったことも記憶に新しい。 感染してから症状が出るまで10年、20年と言われていたことも恐怖を駆り立てる。

根室の中学生だったときに、エキノコックスの感染有無の集団血液検査が年1回あったことを覚えている(いまではもう集団検査はしていないと思うが、任意の血清検査は道内どこでもできるはず)。このNoteを読んでいる99%以上の人(100人も読んでないかもしれないが)はそんな経験はないだろう。当時道東以外の北海道でもそのような集団検査はなかったはずだ。しかし、北海道の人は観光客と違ってキタキツネを見て「可愛い♡」と思うことはまずない。近づいたり、ましてや餌付けしたりすることもない。エキノコックス症の感染源だということを知っているからだ。

小説に戻ると、この本は昭和初期に礼文島限定(と思われていた)エキノコックス症の撲滅に尽力した北海道職員が主人公である。詳細については触れないが、礼文島に持ち込まれたロシアのキツネが元になって、感染症が広がったと考えられていた。結局、なんとか封じ込めに成功し、主人公は札幌に戻る。メデタシメデタシである。

しかし、問題は後半の道東編にある。1965年頃、根室管内でエキノコックス症でなくなる子供などが発見され、感染が北海道本土に広がっていることがわかったのだ。それはおそらく礼文島から広がったものではなく、別の経路で千島列島からもたらされたと推測される。1980年代には北海道全域にエキノコックス条虫が広がったことが確認されたらしい。 

小説では主人公は根室に責任者として派遣され、礼文島と同様に撲滅の指揮を取る。しかし、地続きの根室では礼文島のような対策(具体的には小説を読んでください)は当然取れない。

さて、このNoteを書こうと思ったキッカケはここからだ(前置きが長くなってしまい申し訳ない)。根室の主人公は札幌の妻子を思い浮かべ、根室に美しい景色を見せてやりたいと願う。しかし、そこで彼は躊躇するのだ。「幼い子どもがここに来て安全なのか」と。その辺の道端の草や水を口にしたり、犬を触ったりしたら、、、と。結局、彼は妻子を呼ばなかった。

根室生まれ、育ちの私はそこで愕然としたわけだ。「いやいや、待てよ。根室だって当時も普通に赤ちゃんはいたし、子供もそこらの野原で遊び回ってたし、犬も普通に飼ってたぞ」と。足を踏み入れるだけで危険な地域扱いは酷いんじゃないか?

小説の中で、根室管内ではキタキツネの感染率は50%を超え、「重度感染地域」と呼ばれていた。礼文島では終宿主である野犬やキツネ、中間宿主のネズミの感染率がはるかに低かったのに比べて、もうほとんどその辺のキタキツネが感染していることになる。患者も出ていることからそう呼びたくなるのもわからなくはない。年間10−20人もエキノコックス症の患者が見つかっている、というところで小説は終わってしまった

ええっ、それじゃあ、根室の人達は救いようないじゃないか

というのが私の読後感だった。根室市役所は当時(といっても2年ほど前の本)、出版社に何も抗議しなかったのか? まるで311後の福島県に足を踏み入れたらガンになるから危ない、みたいな非科学的な言い草なんだが。しかも、著者が本州の人ならわからなくもないが、別海町出身で十勝在住なんだよね?

さて、この小説に一貫して説明が欠けていたことがあると思う。それはエキノコックス症が「感染可能性が極めて低い稀な病気」ということだ。キタキツネの半数(近年の調査では30−70% https://costep.open-ed.hokudai.ac.jp/like_hokudai/article/23300)が条虫が寄生していたとのことだ。これだけ感染した終宿主がそこら中にいるのに(キタキツネは市街地でも見かけることは珍しくない)、感染者数は2000年代に合わせて400人ほどしかいない。https://www.niid.go.jp/niid/ja/echinococcus-m/echinococcus-iasrtpc/8682-469t.html  
平均して年間20人ほどである。そう聞くと多い気がするかもしれないが、例えば、肝臓がん患者は2019年に37000人以上とのこと。どちらを恐れた方がよいかは自明だろう。https://ganjoho.jp/reg_stat/statistics/stat/cancer/8_liver.html#anchor1

北海道全域が汚染され、道東地域は「重度感染地域」と聞くと、超危険な場所、とても観光で行けるような地域ではない印象を与えるが、実際には530万人も住んでいて、キツネも何10万頭?も住んでいるわりにはヒトが感染することは極めて稀なのだ。普通の対策(外から帰ってきたら手を洗う、山菜はよく洗って火を通す、沢水は飲まない、犬を外で放し飼いにしない、キツネやその糞を触らない)をしていれば感染することはまずない。

私は高校生のときから東北・北海道の山を登っていた。実際のところ、沢水や湧き水は普通に飲んでいた。一緒に行ったメンバーも同様に。もちろん、エキノコックスのことは知っていたので、溜まり水を飲んだりはしないが、登山道脇の水場とされているところや、上流に人家のないきれいな沢水は躊躇なく生水を飲んでいた。それは知床でも同じだった。

もちろん、いま山登りするなら携帯できる高性能の浄水フィルターを使う。しかし、そんな便利なものがなかった時代、特にエキノコックス条虫が道東で広がった昭和40−50年代に、道東で山水を飲んだ住人、登山者はおそらく延べ数100万人を超えるだろうことを思い浮かべてみると、感染可能性の低さが想像できるだろう。ざっくりとフェルミ推定するなら、沢水を飲んで、そこに「たまたま」条虫の卵が混ざっていて感染し、は数100万分の400、つまり1万分の1程度なのだろう。

そして、これは素人の想像で文献があるわけではないが、たとえ条虫の卵が体内に入ったとしても、100%発症するわけではないのではないか?爆発的に患者が増えた礼文島ですら稀な病気だったのだから。

エキノコックス症に限らず、人獣共通感染症はとにかく恐ろしい。特にコロナやエボラ出血熱といったウィルス起源の病気はやっかいだ。ウイルスは条虫とは違って用意に変異するからである。エキノコックス症はヒトからヒトへは感染しないという点においては遥かに対策が容易だ。興味ある方には以下の本をおすすめしたい。(了)

top画像は根室市の明治公園(かつての牧場)を何10年ぶりかで訪れたときの写真。昔は荒れ果てたサイロだった


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