言葉で訪ねる『音ちゃん』の世界第2号~脚本について(後半)

0 はじめに

こんにちは、夢水です。
ラジオドラマ第6弾、『音ちゃん』が公開されて二日ほど経ちましたね。今日も、「言葉で訪ねる『音ちゃん』の世界」の第2号として、脚本の裏話を中心に書いていきます。
前回の裏話では、脚本に込めた思いを中心に書いたのですが、今回は少し、音楽とシナリオとの関係にも焦点を当てながら書いていきます。


1 時間的・空間的公共性を担保する駅ピアノ

さて、この作品で何よりもカギとなるのは、「白と黒の毛を持つ怪物」こと、主人公たちの住む町の駅前に置かれている駅ピアノです。なぜ、数ある種類のピアノの中から駅ピアノというものが作品のカギとして選ばれたのでしょうか。
ピアノというのは大抵、自分の部屋や音楽室、コンサートホールに置かれているもので、弾くことができる人というのは、物理的にも権利的にも限られてしまいます。しかし、駅ピアノは少し違います。もちろん、許可をとって弾かなければいけないという場合もありますが、比較的一般のピアノに比べれば自由に扱うことのできるピアノと言えます。
つまり駅ピアノとは、時間的にも空間的にも、公共の財産として扱われるのです。
時間的な公共性を担保したかったのは、音ちゃんという少女が幼馴染たちと約束をして、それを数年越しにかなえるということを象徴するためです。音ちゃんとの約束は、一人ではかなえることのできない約束であると同時に、時間的な広がりが生じてしまいました。
空間的な公共性を担保したかったのは、自分の心の中に秘めた思いや、つながることのできなかった人々がともに集まって約束をかなえることができるようにしたためです。さらに、ころな禍で、実際に人と出会うことや、みんなで同じ空気を共有するという、実空間の公共性が否とされている今日において、いつかまたそれが何の問題もなくできるようにしたいという願いも込められています。
しかし、この駅ピアノについて、作品を作るときに論点となったのは、それがどのような大きさでどのような色をしているのかということです。作者である私は、実のところほとんど駅ピアノを触ったことがありません。そこで、駅ピアノを見たことがある人や、視力のある方々とも相談をしてイメージを作っていきました。その色や形をどうするかによっては、脚本のストーリー性にも影響が出てしまうし、あまりにも脚本の中で非現実的なことを書いてしまったら、皆さんの心には届かないでしょう。結果として、なんとか現実的にイメージのつく駅ピアノが頭の中で想像できるような設定になったことは、私のみならず、この作品の製作にかかわった人たちが大体安堵しているところでしょう。

2 音ちゃんの存在の描き方

この作品を、非常にコンパクトにまとめれば、幽霊となった音ちゃんがよみがえる話、と言ってもいいかもしれません。そこでカギとなるのは、どのように音ちゃんという女の子を描写するかという問題です。
視力が皆無の私は、はっきり言ってお化け屋敷に全く恐怖を感じない人間です。つまり逆に言うと、音ちゃんが見えようと見えまいと、実際の私には変わりません。そういう人間が、幽霊として現れる音ちゃんを書くと、誰にどのように彼女が見えていて、どのような体制なのかということが、どうしてもうまく表れない描写になってしまうのです。
基本的に制作中に統一されていた見解は、音ちゃんは駅ピアノと一心同体のような存在であるということです。しかし、誰にどのように見えているのか、立ったり座ったりできるのか、見えているとして顔だけしか見えていないのかなど、様々な論点が浮かび上がってくるわけです。この作品はラジオドラマですから、音ちゃんの見え方を緻密に映像の中で表す必要はありません。しかし、キャラクターデザインを作るときには、先ほどの駅ピアノと同様に重要な要素になりますし、何よりセリフで描写をあいまいにしてしまえば、視聴者を置いて行ってしまうことになります。おまけに音ちゃんという存在は、この作品のタイトルになっているほど重要な役回りですから、その部分はしっかりと決めておく必要があります。
ただ、実は私の個人的な見解としてここで申し上げたいのは、「それは視聴者の皆さんが勝手に想像してみてください。」ということです。こちらが、どんな状態であると詳しく音ちゃんのことを描写してしまっては、視聴者の皆さんは客体としてお話の世界と向き合うことしか権利がないことになります。そうではなくて、音ちゃんはどんな姿をしていてどう見えているのかを考えながら作品を楽しんでいただくことで、皆さんの中でそれぞれ違った作品の見え方が起こることも期待しているのです。
想像力を働かせることの苦手な方には少しハードルの高いことかもしれませんが、ぜひそんなこと考えながらこの作品を楽しんでいただきたいというのが、原作者の私からの切なる願いです。


3 誰に『命の音色』を聞かせるか

この作品で、収録間際まで、というか収録する最後の最後まで議論になったのは、誰が『命の音色』の聞き手であるかという問題です。
その議論の発端となったのは、最後のシーンのセリフです。もともとこの部分では、合唱祭で歌うことを少し意識させるために、音ちゃんを完全な聞き役と規定した脚本を書いていました。しかし、それでは音ちゃんとほかの人たちが完全に切り離されていて不自然だし、一緒に歌うということが感じられないのではないかという意見が出ました。
そこで、結果としては音ちゃんも一緒に歌おうという意味のセリフに落ち着いたのです。
この議論はつまり、約束をかなえるという部分で、音ちゃんには完全に約束の受けてとしてそこに存在してもらうのか、それとも音ちゃんも一緒に歌わなければ約束はかなえたことにならないとするかという問題であって、かなり製作の段階で解釈のずれが起こりました。それは、演じてくださった役者さんの間でもそうですし、原作者の私自身も迷った部分でした。
当然これは劇中歌ですから、視聴者の皆さんだけを聞き役にするわけにはいきません。誰のために送る歌なのかという問題をうやむやには解決できないのです。
この議論に関連してもう一つ裏話があります。もともと脚本を作っていく段階で、「合唱祭はそもそも開かれるべきなのか?」という疑問も提示されたのです。つまり、合唱祭のあとに音ちゃんの駅ピアノで約束をもう1度かなえるのもよいのではないかという案がある一方で、合唱祭が中止になったからこそみんなで音ちゃんのところにいくという話につながるのではないかという案がありました。
欲張りなことを言うと、駅ピアノの前で合唱祭をするという演出も面白かったかもしれませんが、この「合唱祭」というのは、あくまで音ちゃんの約束とはもともと関連していなかったこととして動いていて、偶然が重なるようにして音ちゃんの約束がかなえられたということにするためには、合唱祭を中止にするのはやむを得なかったことであると、今では思っています。


4 不自然性の承認

最後に、このドラマを何回も見ていただいたり、ドラマをいろいろ分析してくださったりした方なら思うかもしれませんが、少し不自然なことが多いのがこのドラマの特徴です。例えば、1年間鳴らなかったはずの駅ピアノが毎日鳴っているのにすぐには大問題にならないこと。さらに、指揮者やピアニストも、劇中歌の『命の音色』を歌っていること。いろいろと不自然な部分を挙げればきりがありません。
この不自然な部分は、もちろんご都合主義でそうなってしまった場合もあります。しかし、私の考えでは、不自然性を承認することによって、楽しく生きることや自分らしく生きることがよしとされればいいと思っているのです。普通指揮者は合唱では歌わない。ピアニストは伴奏に集中すべきだ。譜めくり役も必要じゃないか…。なんて現実的なことを考えてしまうかもしれません。
つじつまが合うこと。自然であること。論理が通っていること。ただ論理をなぞるだけのそんな世界なら、ロボットにも生きれそうな世界ですよね。この世はそもそもが不自然で、そもそもがつじつまの合わないことの連続です。意味の分からない言葉を並べていたって、それが生きているという証拠なのです。
そんな思いを抱えた音ちゃんからのメッセージを、脚本の不自然性をよしとする形で残させていただきました。


5 おわりに

以上で、『音ちゃん』の脚本の裏話は終了です。たくさん書いてしまいましたが、今回のお楽しみはこれからです。
次回の記事では、この作品の監督であり、私が長年お世話になっているげんさんにご登場いただき、より踏み込んだ製作の裏話をお伝えしますので、お楽しみに。
→前回記事はこちら:
https://note.com/asu_name_dream/n/n11256d54d491
ラジオドラマ第6弾『音ちゃん』をまだ聞いていない方はこちら:https://youtu.be/NiT7dBL7vII

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