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地元の都市伝説を追う② 鈴鹿明神社

おはこんばんちは、明日晴レです。
今回は、「伊勢から神輿が漂流してきてできた神社」についてです。

初めに断っておきますが、ここに書いてあることは全て私個人の考えです。
現在の信仰・思想等を否定する気は全くないので、あくまでエンタメとして楽しめる方のみお付き合いください。

地元の都市伝説を追う①でもお伝えした通り、縄文時代から座間には人々が生活していた訳ですが、縄文時代の中期から後期にかけて(約6000年前)、地球は温暖で海面が今より高くなる「縄文海進」の影響で、神奈川県も海岸線が今より内陸まで到達していました。

https://www.yurindo.co.jp/yurin/17355/2 神奈川県立生命の星地球博物館より

座間市は県央の厚木市より少し北側にあり、すぐ近くには県を南北に流れる相模川があります。昔の相模川は現在よりも水流が多く「大川」と呼ばれ、今より東側を流れていたので、当時は座間から船で海に出る事もあったのではと推測。

ここで本題の鈴鹿明神社についてなのですが、まず同社の御由緒として『座間古説』に以下のような伝説があります。

 相模国高座郡座間に鈴鹿大明神が祭られているが、その起源の地を尋ねれば、伊勢国の鈴鹿大明神をこの地へ勧請したものである。
 人皇四〇代天武天皇の時代、大山祇神の子孫が伊勢の国の鈴鹿におられたときのことである。そのころに、天智天皇が弟の清見原(浄御原)王子へ天皇の位を譲られると言われたので、(陰謀の恐れがあったので)清見原王子は逃げられて鈴鹿山の大山祇の子孫の所へ来られた。大山祇の子孫である鈴鹿の翁は、清見原王子に、まず御先祖の伊勢神宮へ御参詣するように言われた。その時、鈴鹿川は洪水であったが、不思議なことに鹿が二頭出て来て王子の前にひざまずいた。王子はこの鹿に打ちまたがって、無事に伊勢大神宮の御参詣を済ますことができた。清見原王子は、鈴鹿の地にしばらく滞在していたが、鈴鹿の翁の娘が大変上品な娘であったので、御寵愛になった。鈴鹿の翁は、近江朝廷に立ち向かおうとする漬見原王子の気配を察知して、鈴鹿の関の長者に援軍を頼んだ。関の長者は、関八州の兵力を動員し、激しい戦の末、ついに大友皇子を打ちとった。そして、清見原王子は天武天皇として即位され、鈴鹿の翁を鈴鹿大明神として祀った。大山祇というのは、伊弉諾尊の子供である。人皇四二代文武天皇のころに、伊勢の鈴鹿明神の御祭礼のとき御座船一艘が宮川へ着いた。その時、舎人が一人御船に乗り込んで、海へ御船を出したが、たまたま大時化に遭い、御船は流されて相模国の入海についた。御船の中の神輿の中には宝物が納めてあり、それは宝剣や宝玉、そのほか色々の宝物であった。相模国の入海でも高波が立ち、御船は転覆しそうになったので、法印たちは波風が静まるようにお祈りをした。その時、御船より鈴鹿の翁が現れ、龍神の怒りを静めるために宝剣を海中に投げ入れ翁は宝玉を持って海中に龍神を訪ねた。龍神は大変喜び、たちまち波風は鎮まり、海の水は七里南へ引いて陸地となった。それ故ここを七里が里といった。またこの時、鈴鹿の東清水の滝の古木に龍灯が上ってお船を導き、このお船が居着いた場所が鈴鹿の森となった。鈴鹿の地は、七里の里である高座郡の中心に当たるので、群頭座間村と名付けられた
 鈴鹿の南、梨の木というところに諏訪明神という古社がある。また、諏訪の下の海中に弁財天があり、そのほかに稲荷・山王を鈴鹿明神社の社内に勧請、合祀した。
 当時座間7ヶ村の内の一つであった勝坂(現・相模原市)に有鹿の蛇神が棲んでいた。有鹿は鈴鹿の宝玉を盗むため「鈴鹿の森」に絡まり機会を狙っていたが、鈴鹿の社内にいた梨の木の諏訪明神と諏訪の下(海中)の弁財天がこれを追い払い、続いて谷の深(やのふけ、桜田一帯の低湿地帯)で三神がそれぞれ大蛇に変身して有鹿と戦った。これには適わず、有鹿は相模川沿いに敗走し海老名で有鹿大明神(海老名総鎮守)として祀られたという。

 中原地域のうちの蟹ヶ沢というところで、栗原の中の小池村と座間村とで畑の絵所有権争いがあり、座間村が勝訴した。これは鎮守様のおかげだと、そこで村中の役人は相談して(中略)鎮守様へ位をつけたらどうかという話になり、宿・入谷で銭を集めた。ところが、それから二、三年たって、伊勢の御師が申されるには、伊勢の鈴鹿様は天照大明神の御妃であられるので、大明神と同様の御位である。それなのに一位などと申すは、大きく御位が滑り落ちることになるから、その必要はないとの事でこの話は放っておかれた。鈴鹿明神は、御位が高いので京の御番には御勤めはなかった。ところが、相模十三神は京の御番に御出になっている。つまり、伊勢の鈴鹿と座間の鈴鹿とは一体のものであるという事であり、(以下略)

『座間古説』
昭和62年3月31日、座間市立図書館史編纂係発行

 気になる箇所だらけ!!(笑)ですが。

 まず、海が七里(約27km)引いて陸地となったとあるので、縄文海進後に海岸線が南に移動した時期としては縄文時代末期から弥生初期(西暦200年前後)なので、鈴鹿の翁が海に宝剣と宝玉を投げたのはその頃の話だと推測します。
 更に「天照大明神の御妃」と、普通に「天照が男神」としている事も大変興味深い。『座間古説』が江戸時代中期(1764〜1772年)に書かれたとされているので、少なくとも江戸時代はそういう事になっていたと見える。

 都市伝説界隈では、天照の妻は「瀬織津姫」であるとされていますが、所謂
「伊勢の斎王の立場にあった人」という解釈で良いかと思います。
 そして、「鈴鹿大明神」を検索すると出てくるのは「鈴鹿御前の別名である」という事。鈴鹿御前は、伊勢の鈴鹿山に住んでいたとされる天女です。
 座間市のホームページでは、

「鈴鹿」は、伊勢の鈴鹿山・鈴鹿峠が有名だが、元は伊勢の郡名で鈴鹿川が起こりであると言われている。「すずか」は篠処(古語で篠を「すず」といった)、流れに篠竹の多い土地をいうそうで、座間の鈴鹿も湧き水の下流にあり、そのような場所であったと考えられる。

https://www.city.zama.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/585/siryou2.pdf

と、伊勢の鈴鹿山・鈴鹿峠の由来に言及していますが、「すず」=篠竹ならば
「鈴鹿」の翁は「篠竹」の翁であって、あの有名な「竹取の翁」なのでは?だとすると、鈴鹿の翁の娘=かぐや姫=天女=裏の鈴鹿大明神ではないかと考えると浪漫ある!ってことで、この説を軸に考えます。
 TOLAND VLOGさんのこの回を見ていただくと、

 饒速日の娘である「御歳神」という姫が、父方の祖母である神大市比売から続く月読系の斎王としての血筋を守る為に、イワレビコ(神武天皇の皇子時代の名前)から逃れて行方不明となり、この時に一緒に逃げたのが大和の元々の支配者であった長髄彦でそれが「竹取の翁」だったのではないか、とあります。
 座間古説には「大山祇神の子孫」が鈴鹿の翁だと書かれており、先ず大山祇神は、神大市比売、足名椎・手名椎(あしなづち・てなづち)、磐長姫、木花咲耶姫、木花知流姫の親神です。
 記紀には大山祇神自身の記述もさることながら、その妻となる神の記載も全然ない
 『古事記』では、大山祇神の妻は鹿屋野比売であり、4対8柱の神を生んでいますが、名前が 狭土、狭霧、闇戸、惑子 など印象がネガティヴなものばかりで、彼女も歴史から消されまくる「月読系の斎王」かもと推測。
 更に、娘の木花知流姫は『粟鹿大明神元記』において、素戔嗚尊が大山津見の孫櫛名田比売命を娶って産んだ神八島士奴美神との間に、布波能母遅久奴須奴神を産んでいます。そして、この系譜は大国主に繋がっていきます。 
 素戔嗚尊は、大山祇神の娘・神大市比売と孫・櫛名田比売と結婚し、息子を大山祇神の娘・木花知流姫と結婚させ、更に娘のスセリヒメを大山祇神の子孫・大国主と結婚させている
 
ことになり、両者の系譜に強い繋がりが見てとれます。
 現在の鈴鹿明神社の境内には、本殿(伊邪那岐命・素戔嗚尊)の他、厳島神社(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命=宗像三女神)と稲荷神社(宇迦之御魂神)が、祀られています。
 鈴鹿大明神が大山祇神の子孫なので、大山祇神の父(伊弉諾尊)、神大市比売の夫(素戔嗚尊)、孫娘(神大市比売の子=宇迦之御魂神)を一緒に合祀したのだと理解できます。
 更に、宗像三女神=スセリビメであるとするならば大国主の妻ですし、更に天照と素戔嗚間に生まれたスセリビメ=伊勢の斎王なので、隠されてきた御歳神(かぐや姫)の祖母として合祀されているのも頷けます。素戔嗚系図

厳島神社
稲荷神社

 かぐや姫と座間古説が更に結びつくのは、鈴鹿が座間に漂着した時の天皇である「文武天皇」が、かぐや姫の帝のモデルだという事。
 座間古説の真相は、御歳神が神武天皇の求婚を断って逃げたけど、天照(伊勢大和)系の血を引いている斎王でもある身分だった。「大山祇神の子孫」として東のまつろわぬ民=蝦夷=縄文人を頼って座間に辿り着き、その時乗ってきた船を森に隠して、鈴鹿大明神として君臨し、死後古墳を作って埋葬した。
 だから、座間の旧名が 伊勢から蝦夷に参った=伊参=夷参=イサマ なのかも知れない。
 また、座間古説にある相模国勝坂の有鹿神とは、座間市の更に北側にある相模原市の勝坂という地域に縄文時代から住んでいた人々で、(有鹿の勝坂遺跡についても調べると面白い)当時の東日本は「まつろわぬ民」=蝦夷だったので、縄文から続く土着の信仰とかぐや姫を、「文武天皇を助けた鈴鹿の翁」を表に置いて、判る人にはわかるように「夷→伊」にして隠したのではないだろうか。
 古代日本に言及している、 深草秦氏の末裔土御門兼嗣氏によると、神大市比売は秦氏の女性で、素戔嗚尊と婚姻関係にあったが、その後、天照族と素戔嗚族に子が出てきたため離縁して移り住んだと伝わっているらしい。

その天照との間にできた姫がスセリビメで、神大市比売とスセリビメの血を引くかぐや姫は、天照、素戔嗚、月読の3氏族の血を引くスーパー巫女だったと。
 そのかぐや姫を守った長髄彦は、「猿田彦」を信仰していたと富家に伝わっているそう。
 猿田彦大神を祀る神社の総本社は、
 三重県鈴鹿市 「椿大神社」
だと言われています。
 そして、鈴鹿明神社にある古い狛犬がこれ↓

足元注目
椿、踏んでる!!

 狛犬が花柄の鞠を踏んでいることは他所でも多くあると思いますが、これは花の大きさもバラバラで花弁などの彫刻がかなりリアルに施されています。
 更にさらに、鈴鹿明神社の本殿東側の目立たないところにある像がこれ↓

眷属いるな

長くなってきたので、諏訪明神、諏訪の下、有鹿に共通する 蛇神 との関係については次に致します。

お疲れ様でした、また次回お目に掛かれれば幸いです。


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