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“個性”の土台は、“真似”なのかもしれない

“個性”と“真似”は、対極的であるように思う。

誰かの真似をすれば、その時点で個性は死ぬ。個性あるところに真似なし、だ。

だが、ここ最近、個性の土台は“真似”なのかもしれないと、ぼんやり考えるようになった。

個性は突然生まれない。もちろん例外もあるだろうけど、世の中にある大半の“個性”は、誰かの“真似”から育まれる気がする。

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このテーマを考え始めたきっかけは、他でもない私自身が、フリーライターという立場から「自分にしか書けない、個性のあるライティング」を求め始めたからだ。

無論、ライターにとって「個性のあるライティング」がすべてではない。

だが、「この記事は自分が書かなくてもいいんじゃないか?」と思ったその瞬間に、ライターとしての自尊心は失われ、文章に熱が乗らなくなることは往々にして起こりうる。

誤解してほしくないのは、私自身がそんな経験をしているわけではない。その逆なのだ。

「この記事は絶対に私が書くべきだ」

そう思えるような執筆に恵まれる機会が増え、この状態を維持するためにも、改めて「自分にしか書けない文章」を考える必要性を感じた。

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そもそも、「自分にしか書けない文章」を構成する要素って、何だろうか?

ある程度の専門性、取材対象者(記事で取り上げるもの)との関係性や距離感、そして「この人らしい表現だな」と思われる個性。

これらが揃っている記事は、いつのまにか読み手を虜にしている気がする。

専門性の習得や、取材対象者との関係性や距離感を縮めるなどは分かりやすいし、比較的取り組みやすいだろう。

だが、この3つの中で個性だけがぼんやりしている。

ちょっと難しいワードを使ってみたり、語尾をこだわってみたり、何となく“個性”っぽいものを生み出そうと試行錯誤してみても、上手くはいかない。

個性の正体を掴めないまま、最初から独創的な表現をしようと頑張ってみても、ほぼ高確率で途中で断念したくなるのだ。

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だから、個性を身につけるためには、誰かの真似から入ることが良いんじゃないかと思う。

好きな作家、ライター、コラムニスト……自分が心惹かれる人の文章を真似る気持ちで書く。文章をそのまま真似るというよりかは、文章の雰囲気を踏襲するといったニュアンスのほうが近いかもしれない。

実際、私自身、そのときどきで好きなライターやエッセイストの文章(の雰囲気)を真似てコラムを書いたことがある。

すると、何回か書いているうちに、何となく自分が得意とする表現やワードの選び方、その癖や傾向などが分かるようになり、それを磨くほうへと意識が向くようになった。

自分がワクワクするものを寄せ集め、切り取ったり、新しいものを付け足したり、それらをもっと素敵にしようと磨き続ける。

その繰り返しの先で生まれるものが、きっと“個性”と呼ばれるものになるのではないか。

「柔らかい文章を書きますよね」
「エモい文章を書くのが得意ですよね」
「情景描写が印象的です」

フリーライターになり一年と少し。そういった類の言葉をかけてもらう機会が多くなった。

ただ、私は最初から“個性”として柔らかい文章を演出しようと試みたわけではない。

基本的なライティングの知識を身につけ、自分が好きな文章の真似をしながらいくつかコラムを書き、そのなかでブラッシュアップを重ね、ようやく「柔らかい」「エモい」「情景描写」といった個性のタネが芽を出した。

とはいえ、これらのキーワードに紐づくような素敵な文章を書くライターは、私以外にもたくさんいる。

私の文章も“個性”が確立しているかと問われれば、自信を持って首を縦には振れないが、その糸口を見つけた気はしている。

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ここからどのように個性の芽が成長していくかは分からないが、その過程で私はやっぱり「いいな」と思った誰かの文章を“真似”るのだと思う。

その繰り返しの果てに、誰かが「真似をしたい」と思えるような、“個性”のある文章を紡ぎだせると信じて。

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