目の前のことで手一杯な自分とマクロ的視点、時々仏教的な。

3月以来放置してしまったが、無事に就業して働いている。

異業種の異職種(少しはやってたが)なのでなかなかにしんどい。

とは言え、いつだって目の前のことで手一杯だった。
部活や受験、就活、保育園のお迎え、異動や突発業務、通勤ダッシュ、体調不良、その他いろいろ。

いつもと変わらん。

そして、みんなそんな感じ。それぞれの事情をかかえて生きている。

遠くから見れば小腸の柔突起や木の葉っぱ、堆肥の中のダンゴムシやありんこと変わらん。

個として存在はするも集団として機能する。

日当たりの悪い位置の葉があれば、木はより良い位置に枝を伸ばすか、葉を落とすか枯れる。
葉っぱの一枚などどうでもよく、木として存続すればよい。
だがしかし、葉っぱなくしては木は生きられない。

害虫に食われたり、台風で倒れたりもする。草刈や伐採もある。
死んだらダンゴムシやミミズや微生物が分解してくれて土に還る。
堆肥としてダンゴムシもろとも畑に撒かれたりもする。

ああ、なにごとも、全て同じで繰り返し。
個も集団も物体も時も意味なんかないし、全部同じ。


むなしくもなるが、それすらありふれたこと。

そんな感情と折り合いをつけるために信仰がある。

『空』である存在に仏を見出し、尊んでみる。
仏的な視点でものを見る。
善悪を定義し、ミッションを与え、涅槃や浄土を設定する。
絶対的な存在に祈り、思いを吐き出し、誓い、感謝する。


無意味なものが愛おしく思える。
あほな自分や街ゆく人々、ダンゴムシ。
ひっくるめて宇宙や地球の構成物。
こまけえことはどうでもいいのだ。
自分を客観視し、いまあるものに感謝するようになると日々の多少の不具合に寛容になり、立ち直り早く、ダメージも減る。

おそらく、人生は無意味だ。考えることすら無駄。
どうせ死ぬ。だが死ななければ生き続ける。それが自然。それだけ。
なので生きる。
つらいの嫌だから、仏教でもなんでも取り入れる。


そんなんで、私はメシを食い、勉強して、働き、祈り、感謝し、笑い、怒り、めげて立ちなおる。
それだけ。


(以上、GWに実家の畑作業をして思いついたこと。)
















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