そこからなにが見えたら満足なのか

 大福で、台拭く。出禁に、出来ん。見えますね。物語が。

 僕は弦楽器職人です。作ったり、治したり。ありがたいことにそこそこ忙しくしている。有名なミュージシャンにも結構使ってもらっている。雇われなのでその点は僕の功績では全然ないのだけど、僕が作った楽器が紅白やらなんやらで音を出しているのは事実と言っていいと思う。多分結構な割合の人がどこかしらで僕が作った楽器から出た音を聞いたことがあると思う。
 
 なぜ今の仕事を始めたのか。これは単純になんかかっこいいと思ったから。

 ではなぜ今の仕事を続けているのか。給料は安い。自社製ギターなんて一生買えない金額だ。かと言ってそれを理由に辞めたくなるかというとそんなことはさらさら思わない。別の仕事でもっと稼ぐ方法だって知っているしウデもツテもある。どうもお金のためではなさそうだ。

 好きだから続けられるという言い分もよく聞く。ちょっと違う気がする。経験上どんな仕事でもそうだったが、やればやるほど自分の至らなさに嫌気がさす。なにかができるようになると倍はできないことが増える。こんなことすらすんなり終わらせられないのかと毎日情けない気持ちの連続だ。正直好きで楽しいよりストレスの方が遥かに大きい。

 喜んでくれる人がいるから。ちょっとあるけど全部ではない。確かに喜んで貰えたら嬉しい。日々の憩いや夢の途中の相棒に、そんなふうに使ってもらえたらと思う。人ができないことを代わりにやって満足してもらえるからこそ飯も食える。しかし残念ながらそれだけでは続けられない。

 5代目円楽師匠は圓生一門が落語協会を抜けたとき、金策に随分と苦労したそうだ。「あのとき費やした時間を落語の修行に使えたら、自分の落語はどれ程のものになっただろうという後悔がある」となにかで語っていた。これはありそうだ。僕も諸々の事情がややこしくなり10年ほど別の仕事を転々としていた時期がある。その時も職人仕事だったので今の仕事に役立ってはいるが、楽器職人に専念していたらどれ程だっただろうという後悔はある。

 sionという歌手の12月という曲にこんな歌詞がある。

 “そこからなにが見えたら満足なのか
   俺にはわからない わからなくなった”

 金もなく毎日自己嫌悪に陥って10年の回り道を惜しみ、そうまでして辿り着く境地で、そこからなにが見えたら満足なのか、もう随分前からわからなくなっている。でもなんか続けてしまう。信念、情熱、意地、矜持、あるいは惰性。どれも違う。結局のところよくわからない自己満足で「なんかかっこいいと思うから」としか言いようがない。17歳のときの僕は随分と慧眼だったようだ。

 到達点なんかなくていい。満足のいくどこぞかに到達することなんて一生ないが。達成感もいらない。なんかかっこいいと思うからなんか続けてしまう。それで充分だと僕は思う。それで多少なりとも他人様のお役に立てたのならこれ以上は望むべくもない。

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