体のないひと

 家具職人をしていた頃、界隈では高名らしい家具デザイナーから図面がやってきてそれを作るというようなことが何度かあった。このデザイナーの図面、机だったら抽斗が開かないとか、テーブルはどう考えても脚が不安定になるとか、某高級車ディーラーのショールーム用吊り戸棚にいたっては扉が開かないどころかそもそもつかなかった。確定する前に誰か気付きそうなものだが。お気に入りのキャバ嬢が振り向いてくれなかったのかもしれないし、中高生のうちにイチャラブセックスができなかった後悔を引き摺っているのかもしれない。悩みがあるなら話くらい聞くのに。なんにせよ心に深い傷(笑)でもないと説明がつかないほど、彼の図面はまともだったためしがない。都度問い合わせるが彼の返事はいつもこうだ。

 「普通に作ればいいだろうがっ!」

 極力図面に忠実且つ納期ギリッギリが現場作業員の日常だ。というわけで普通に図面通り開かない抽斗の机を設置当日午前着で作ってやったら電話口で滅茶苦茶怒鳴られたのでガチャ切りしてそれきりだ。と思ったらしばらくして別案件の図面が来て笑ってしまった。嫌なことがあり過ぎても自暴自棄はあかんよ。

 大正天皇が「小さんの高砂屋は実に上手い、豆腐屋の売り声がそっくりだ」とお話しになられたとき、「君が代華やかなりし時分の大正天皇が豆腐屋の売り声なんぞ知るはずがない」と、一体誰をくさしたいのか訳のわからない難癖をつけた学者がいたそうな。しかも大正天皇は本当にご存知だったそうだ。なんやねん。

 小関智弘氏の小説「春は鉄までが匂った」に、とある学者様が「鉄は本来無臭だ。鉄が匂ったなんておかしい」と、もはやなにが言いたいのかすらわからないいちゃもんをつけた。「製鉄は純鉄ができる訳ではないので一般に鉄と呼ばれる不純物混じりの謎の金属塊がその不純物と切削による熱のせいで匂った」と書けば満足だろうか。それはそれで笑えるかもしれない。

 こういう人たちを僕は「体のないひと」と呼んでいる。石原慎太郎が芥川賞の選考委員を降りるとき、「今の小説には身体性がない」と言った。これを「リアリティがない」と変換して報じたメディアがあった。彼らもまた体のないひとだ。身体性のなさとリアリティのなさでは全く違うと僕は思う。確かに言葉はどれだけ尽くそうとも近似値でしかないが、ここまで雑に近似して良い表現とは思えない。文学の世界なら尚更だろう。

 先日亡くなったチバユウスケが所属したthe birthdayのrokaという曲が好きだ。

“道草くうのが好きさ
多分あんたにゃわからない 
ダンデライオンの味が 
かなり苦いってこと”

 どちらが良いとか悪いとかではないが、僕は体のあるひとが好きで、体のないひとは苦手だ。しかし厄介なことに体のないひとは結構偉いことが多い。避けられない。仕方がないので僕に不利益がある場合に限り全員殴ることにした。かつて僕が並み居る上役を片っ端から殴っていたのにはそういう理由がある。やむなしである。多分もうやらない。これは成長か老化か。この2つにたいした違いはない。

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