あなた、すごく日あたりのいい水たまり ねえ、なんでそんなにやさしかったの?(石井僚一)

あなた、すごく日あたりのいい水たまり ねえ、なんでそんなにやさしかったの?
石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』(短歌研究社、2017年)

 なんで、と問うているけど、ほんとうは聞くまでもなくわかっているはずだと思う。一般にこの歌に詠まれているような「やさしさ」は、あっと云う間に霧散してしまう性質のもの、一瞬だから許された嘘みたいなものだという認識が、この歌の根底にはあるような気がする。
 世界のほとんどは、順当な事象によって構成されている。お金を払うから物が買えて、1+1の答えだから2で、春だから桜が咲くのだ。そこには見上げはててしまうくらい厳粛な決まりごとがある。100mlの水をビーカーAからビーカーBに注ぐだけで、110mlに増えることなんてない。あったら笑っちゃうから。
 でも世界では、ごくまれに一瞬のキラッが起こることがある。決まりごとに則ればそうはならないはずの事象。監視者が気を緩めたその一瞬を狙って、起こりえないことは起こり、そして消える。もちろん恒常的には存在できない。それは世界にとってはせいぜい嘘でしかないものなのだ。ちょうど映像に差し挟まれるサブリミナル効果の画像と同じで、一瞬だからぎりぎり成立している。この歌に詠まれている、もうほんと世界一甘い飴より甘い「やさしさ」は、ふつう人間ってこんなやさしくなれますか? って疑問を抱いちゃうくらいだと思うんだけど、実はその疑問の通りで、ふつう人間はそんなにやさしくなれない。一瞬だけだからキャパを超えた「やさしさ」を無限に分け合えたのだ。
 キラッが起こるのは、うつろいの季節である。一つの秩序が終わり、次の秩序に移行しようとする段階には、物事の輪郭がちょっとだけあやふやになる。夜明け、金曜日の夕方、第二次性徴期、単なる友達だったはずなのに家まで上がり込んでしまったとき、等々。そんなマジックアワーには、監視者もちょっとぼうっとしていて、奇跡が一つや二つ起こってもごまかせてしまうものなのだ。そういう目で見ると、「日あたりのいい水たまり」は、まさにそれだ。雨という秩序から晴れという秩序に移行するわずかな刹那だけに住む、矛盾的な事象。期間限定だからこそ水たまりは、もう複製された太陽だよねこれ、くらい燃えかがやくことが許される。それは「やさしさ」をあらわすにあたって、ルール違反なくらい的確に爆発している比喩だと思う。
 この一首を読んでいてなんといっても上がるのは、この内容における構造が短歌のリズムにおける構造ともパラレルに対応している点だ。具体的には、下句にはいる寸前の「ねえ、」のことを指している。短歌における最大のルールとは言うまでもなく「五七五・七七」というリズムに言葉をはめることなんだけど、この歌は(初句の字余りはいったん置いといて)「五七五・二・七七」を採用している。上句という秩序から下句という秩序に移行する一瞬、音韻の神様の目をすり抜けるようにして「ねえ、」という呼びかけを読者の心に刺すというこれは、反則スレスレの裏技だ。欲を言えば、初見のときだけこの「ねえ、」があって、読み直したときにはもう

あなた、すごく日あたりのいい水たまり なんでそんなにやさしかったの?

になっている、というのがいい。都市伝説のように「ねえ、」の有無については囁かれるけど、そんな痕跡はどこにも残っていない、そんなだったらもうこの歌は夢みたいですよね。

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