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メキシコのショットグラス

机の上にショットグラス。
ソーダガラスの青緑がかったグレーに口縁の瑠璃色が映える。高さ9㎝、
直径3㎝程の円筒、吹きガラスなのでいい感じに歪んでいる。
地場産業だろうか、メキシコシティで見つけたその店には他に大皿、大小のボール、脚付きの杯やタンブラーなど同様のガラスで作られた様々な器があった。決して高価ではないがどれも愛らしいものだった。確か買い求めたのは6本で、今ここに2本あるということは、4本は友人に贈ったか割れてしまったのだろう。
現地の人はこのショットグラスでテキーラを飲む。
傍らにサングリータ、トマトジュースとオレンジジュースをベースにライムやスパイスを加えたもの、例えるならタバスコをきかせた濃いめのトマトジュースか。これをチェイサーにする。こちらもショットグラスで。
はっきり言って、大変に美味。テキーラも進む。
ので、大変危険。加えて標高の高いところでアルコールはとてもよく回る。メキシコシティ―標高2240m、お世話になった友人宅のあるプエブラ2135m。
滞在中日増しに辛くなった頭痛と倦怠感は標高のせいか、はたまたテキーラの飲み過ぎであったか。
滞在一週間が過ぎた辺りで1日寝込んで友人たちに心配をかけてしまった。
自分は信州の生まれで、山国育ちを自負していたのに。
心配した友人たちが街で唯一の日本食レストランに連れて行ってくれた。鉄板焼きの店だった。日本人スタッフの姿は見えなかった。でもその気遣いには本当に感謝している。
 
メキシコに行ったのは1996年4月のことだった。
当時僕はイタリア在住で、ミラノにあるアカデミア(美術学校)に留学中、絵画コースの3年生だった。
絵画コースでは3年目から版画が必修となるので、いくつかの版種の中から銅版画のクラスを選択した。
もともと銅版画は好きだったのと、当時まだイタリア通貨がリラの頃で、その年円がやたら強かったので、小型のエッチングプレス機を買って、アパートでメゾチントの小品を摺ってみたりしていた。授業の初日、それをクラスに持ち込んだところ教授にたいそう気に入ってもらえた。授業のエッチングも面白くてクラスに通うのが楽しみになった。
年が明け、3月になったある日、教授から告げられた。自分はメキシコのプエブラにある大学から特別講習に招かれていること、良い機会だから君も来ないか、2週間ほどの旅程でと。
 
イタリアに留学しながら奇妙に聞こえるかも知れないが、アメリカとは僕にとって遠い遠い大陸だった。北米にはなぜか惹かれるものがあまりなかったし、ネイティブな部分と中南米にはそれなりに興味があったが、敢えて行きたいと思う所ではなかったからだ。
しかし、そういう所というのは呼ばれでもしなければ行かないんじゃないか?
ミラノから同行する教授のアシスタントは同年代で気も合ったし、現地で受け入れてくれる人物はミラノに留学していたとのことでイタリア語が通じる。つまり、孤立無援、言葉もわからないところに行くわけではないということ。こんな機会は金輪際あろうはずがないのだ。
何の機会かよくわからないまま渡航を決めた。独り身故、身軽だったのだと思う。
ミラノからマドリッドを経由してメキシコシティへ、イタリア人と旅をするのはさぞやと危ぶんだが、道中思いのほか退屈だった。
 
さて、到着すると一変、2泊ほど過ごしたメキシコシティがもう既に刺激的だった。インカ・マヤ文明の遺物を展示する博物館に、街行く人々に、煌びやかなマーケットに、皆で食べたランチプレートの不味さ(ゴメンナサイ、口に合わなかっただけ。旨いものもあった)に、夕闇迫る広場で迫りくる
マリアッチに驚愕した。
心臓のことをコラソン(corazòn)という事、単に心臓ではなく心を表すことも知った。
 
テオティワカンのピラミッドに登ってから大学のある街に向かう。
プエブラはメキシコシティから車で2時間ほどの距離にある。
街の中、あちこちに小高い丘があって天辺に教会が見える。
丘に見えるのはピラミッドが埋められたもので、その上に建つ教会の様式は当然ながらイベリア風。先住民の血と涙の歴史がそのまま残っている。
教授の授業はこの町にあるアメリカ系の総合大学で行われた。広々として設備がよく整ったキャンパスだったと思う。参加者は学生ばかりではなく、中年層の女性のグループもいた。僕のすることといえば、自分なりの制作をすること。現地の学生に連れられて銅板を買いに行き、思うままのメキシコのイメージを描いてみた。インカ・マヤ風の文様、土や草の手触りが表現できたらと試みた。生憎、現地で完成することはできなかったが充実した時間だったと思う。
手荒れがひどかった僕の手を見て先の女性グループの一人が「インディオスの手と同じね、これは尊い事なのよ」と言ってくれた。もちろん、僕に分かるスペイン語の範囲で、僕がそう受け止めたという意味ではあるが。
 
メキシコシティでもそう感じたが、街行く人の顔を見ていると大半はヨーロッパ系ではなく、インディオスあるいはメスキータだったようだ。この国の基盤を作っているのはマヤ・アステカの子孫達なのだ。
現地の友人に聞いたところ、メキシコの人々が愛する小噺ではスペイン人が笑われる対象。次が北米人や日本人(!)とのこと。
 
                *

3人の宇宙飛行士が1年間のミッションで飛び立つことになった。
荷物に制限がある中で、1品目、自分の好きなものを持っていくことが認められた。
1人目のメキシコ人、「妻」を携行することに決めた。
2人目の日本人、「英語学習教材」
3人目のスペイン人、「ハバナの葉巻一年分」
 
1年後、群衆に囲まれ、無事ミッションを終え地球に帰還した宇宙船から今、飛行士たちが降りてくる。
 
1人目はメキシコ人、「Hola!、僕の奥さんと赤ちゃんを紹介するよー」
2人目は日本人、「Hello,everybody! Nice to meet you again! ★〇△◎*#&@▼!!!」
3人目はスペイン人、「ダ、ダレカマッチカライター、モッテナイカ?!」

                *

テキーラを片手にメキシコ人の友人が語ってくれた小噺。ダスティン・ホフマンを彷彿とさせる彼の、絶妙な語り口に皆大笑いした。
 
用事があったので皆に先立ち、ミラノへの帰路は一人旅であった。プエブラの郊外バス乗り場まで現地の友人が送ってくれた。イタリア語との類似点が分かり、片言のスペイン語で道中やり過ごすことができたのも今は昔。
そう、もう一つ気付いたこと。我々イタリア語組には現地の人々の話すスペイン語の多分2~3割、あるいはもう少し理解できたが、現地の人々から我々のイタリア語はさっぱりわからんと言われたこと。理由はわからん。

彼と交換した版画は今でも大切に持っている。エッチング(腐食銅版)でヒマワリが一輪描かれた作品に、胸を打つ滋味のようなものを感じた。僕の作品は、メゾチント用のヴェルソで天使のシルエットを彫り付けたものだったと思う。作品を交換しようと持ち掛けられたとき、自分が初心者に思えて気後れがして、一瞬戸惑ったら「僕ではダメかな?」と言われて慌てて訂正した。本当はとても嬉しかったのだ。
彼は僕の版画を持っていてくれるだろうか。
 
ソーダガラスの色は空の果てにも、水の底にも見える。
メキシコの空のように底抜けの蒼、底抜けの陽気さ、底抜けの悲しみ。
知らない間に随分昔の事になってしまった、かけがえのない時間を思い出す。
 

仮想と体感7・Virtual and experience 7
cm.33.3 x 33.3. oil on canvas. 2021
Ryo Nakanishi
タイトル画像:glasses Ⅱ(part). cm.20 x 20. watercolor on paper. 2021
Ryo Nakanishi

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