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西濃の風景 鍾乳洞と玉倉部の清水

※湖北以外もシリーズ化?
西濃(岐阜県南西部)

濃とは美濃の「の」濃いわけではなく、地域に三つの「野」があるので三野の国という由来もあるようです。(諸説あり)

Wikipediaより 紫部分が西濃
「野」の位置は推定

そして西濃(せいのう)とは、岐阜県南西部の地域区分の呼称。こちら湖北(滋賀北東部)と接しており、近畿・中部と地方区分は割れるが文化的共通項の多い所。
いにしえよりの歴史ロマン溢れる地でもあります。そんなラブリーな西美濃地方をラフに歩きました。

本日は東海の奇勝・関ヶ原鍾乳洞を物見。岩倉山へ向かいました。

厳冬の伊吹山(伏線)を見ながら岐阜方面へドライブ
レトロな案内図
1cm/130年で成長する鍾乳石と海の生物の化石が見られるそうです
額付きの入り口
怖楽しい
コウモリがもふもふ
左にマスの泳ぐ清流が流れています
闇の中の鏡餅
シャバの空気はひんやり・・・ん?石碑
日本武尊なんとか跡?
ここが玉倉部の清水
岩倉山の鍾乳洞看板
玉倉部神社
入り口と出口の間に鎮座
石室っぽい石の祠
青空が沁みる

・岩倉山の鍾乳洞
美しい稜線をえがく伊吹山の麓、四季を通じて楽しめる関ヶ原にある《関ヶ原鍾乳洞》
鍾乳石が発達し石筍とともに造り出す奇観、天然の造形がみものです。洞の中には虹鱒が泳ぎ、古生代の生物の化石がいっぱい。おもわぬ発見の連続です。自然と歴史と伝説の《関ヶ原鍾乳洞》へぜひおこしください。(パンフレットより)

・玉倉部の清水(たまくらべのしみず)

その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が伊吹山で毒霧に遭遇し病に冒されたが、この清水で回復されたと伝えられる。(パンフレットより)

玉倉部神社(たまくらべじんじゃ)
祭神 不明
社殿はなく、岩倉山全体を祀るようなたたずまい。
古墳の石室のような石に囲われた祠がある。磐座山?


鍾乳洞。冬に行くのか、と思われるかもしれませんが、年間を通じて洞内温度15℃と言われるように、外気と比べればぬくもりを感じました。
マイクラ(Minecraft)フリークな子ども達は洞窟に興味があるようだったので冬休みの思い出にと誘ってみました。

鍾乳洞とは石灰洞とも呼ばれ、石灰岩地域の地下に地下水の溶蝕によって作られる地形です。
「ココは二億年以上の大昔、海だったところが隆起して出来ているから海の生物(ウミユリ・巻き貝)などの化石が見られるんだよ。」と理科っぽい解説を子どもにしていました(あってる?)なぜ隆起したはよく知らんけど。

全長約500m。こじんまりとした通路に天井が低めで、スタイルの良い方はやや中腰で進まなければなりません。奥にいるときに大地震が起きたら・・・と考えるとちょっとシャレにならないですね。

出口側の小川にはニジマスの群れが泳いでいるのもまた清らかでかわいらしい。水質・水温共に生育に適するようです。そして出口。洞窟って外に出た時の解放感が良いですね。長い暗闇時代のたまもの。産まれ直したよう(言い過ぎ)


※ココからタケルをめぐる妄想↓

そして外に出た時に気付いた「玉倉部の清水」という石碑。
ヤマトタケルが伊吹山の神に破れた後に清水で傷を癒やした所だそうです。

実は滋賀県側にも多くの比定地があります。湧き水=ヤマトタケルといっても過言ではないほどに。
最も有名なのは「居醒の泉」(米原市醒ヶ井)でしょうか。
これは記紀とはちょっと違う伝承があります。
ヤマトタケルが美濃国不破の関で大蛇を退治したとき、蛇の毒に当たり、発熱しながら醒井までたどり着いて、泉にたたずみ、その清き水を肌にそそげば、たちまち熱や痛みがやみ回復した。(法善寺所蔵 三水四石由記/1503年より)
敵が伊吹山の荒ぶる神じゃなくて不破の関(関ヶ原)の大蛇になっているバージョン。
記録の残る歴史的には壬申の乱において玉倉部の戦いの舞台となった玉倉部邑(日本書紀に記述あり)付近と言われています。現在の地名で「関ヶ原町玉」周辺。

ヤマトタケルの最期。
備忘用に記紀での違いをまとめました(細かいとこ間違ってたら失礼)

古事記→草那藝剣を美夜受比売のもとへ預ける・伊服岐能山で・白い大猪(神)を神の使者と見くびる・大氷雨により失神・玉倉部の清水で回復・能煩野(三重県)で歌を詠み、死亡・白鳥になって河内へその後空へ

日本書紀→草薙の剣を宮簀媛の家に置いていく・五十葺山で・大蛇(神)を神の使者と見くびりまたぐ・氷雨、霧により敗走・居醒の泉で回復・能褒野で30歳で死亡・白鳥になって大和へ飛んでいった

ヤマトタケルの伊吹山のエピソード・記紀での記述の違い

記紀の中で、西に東に百戦錬磨のヤマトタケルノミコトが伊吹の神に敗れたのち命を落としてしまうという悲劇的なエピソード。
冒頭「伏線」の伊吹山の写真のように「伊吹おろし」と呼ばれる寒風吹きすさぶ冬の気候が厳しい場所でありますが、しんでしまうとはなさけない。
皇軍と敵対した大猪or大蛇「伊吹の荒神」とは何者なのか。冬じゃなかったら勝てた?草薙の剣があったら勝てた?(なぜ尾張に置いていった?)

余談ですがタケルさんの息子・帯中日子(14代仲哀天皇)は九州の熊襲討伐中に崩御。父のようにはいかなかったようです。仲哀天皇の皇后は伊吹山の麓の豪族息長氏の娘(とされる)息長帯比売命(神功皇后)、孫は15代応神天皇というのもこの英雄の謎に深みを増すばかり。

これらの系譜の人物は前回の初詣記事でご紹介した日本海側・敦賀市の「気比神宮」に揃って祀られているのもまた面白い。
(北陸→湖北→美濃→尾張ルート連合的な結束があったのでしょうか)

地元ではタケルさんを崇めつつ、ある意味「侵略者」・・・?またはやらかしてしまった可哀想な英雄というイメージを拭えませんが、伝説といえど何か元になった人物・集団がいたのでは、と想像が膨らみますね。

以上、ここまでお付き合いありがとうございます。
西濃の風景・関ヶ原鍾乳洞に行ったはずが玉倉部の清水でおもわずテンション上がってしまう一日でした。(子どもたちは雪遊びにテンション上がってました・靴がびしょぬれ!・靴下買いに行った!)

過去記事
・伊吹の神について

・気比神宮について


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