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言葉という身体感覚

私は頭中心で、

そうおっしゃるクライアントさんが、私のところには多い
(類は友を呼ぶ、と友人にからかわれそうだ。)

言葉にすることで制限してしまう、罪悪感を感じてしまう、感じられてないんじゃないかって。

そういう時に、私は
言葉も一つの身体感覚、だから、大切にしてください。

決まってそういうことにしている。

『言語化されていないもの、言いようのない何かを言葉にすることで限定してしまう怖さ、貧しさを理解しながら、それでも、かすかにでも「それ」に触れる言葉を探してしまいます。触れたい、と願っているのかもしれません。』
※クライアントさんの感想から許可を頂いて掲載

その言葉はもはや、言葉や思考を超えた繊細で豊かな感覚のニュアンスの現れになっている。

純粋な感覚に、思考が押し寄せ、イメージができて、欲望を生む、、その欲望が過去からの参照で、未来に目的を常に作り出して、大切な“今“から引き離してしまう、、その堂々巡りで苦しみから逃れられない、、というのが日常であるなら、
純粋な感覚に言葉がやってくる、、こういった方々はすでに癒やされている、、そう感じる。

誰を強制するでもなく、理解を求めるわけでもなく、ただ湧いてくる言葉、

その主語はたぶん、わたし、ではない、、、自然のクリエーションに触れている、、私はそう感じている。

『中動態』を現してくださった國分功一郎先生が、

“能動でも受動でもない表現(主体の所在のわからない)は、少なくとも言葉の表舞台からは消えてしまっている、、本当にそうだとすると、それはなぜ消滅してしまったのだろうか?

いや、もしかして、それはまだ姿を変えて残り続けているのだろうか?

それを読んだ時に、真っ先に私のいつもの手の下にある感覚を思った。“

姿を変えたそれ、を探し求めて、今ここにいる。

『待ち合わせの場所で待ちなさい』
人間社会の時間軸に乗る前の純粋な感覚、をそのまま言葉に紡いでくれたオステオパシーのジェームスジェラスD.O.の言葉を読んで、今朝も私は『頭中心』の罪悪感から救われている。

感覚のままにとどまる、理解しない言葉、感じるだけの言葉は、風のように、鳥の声のように心地よい。

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