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人間を壊す毒

「ただいま」

 僕は玄関で呟いた。

 返事はない。

 ふう、とため息をつき、重たいリュックサックを置いた。持っていた泥だらけのシャベルを壁に立てかけ、ブーツの紐を解く。

(もう一人じゃないんだ。こういう挨拶からちゃんとしないとな)

 体に付いた泥を払い、風呂場へ向かう。

 みし、みし……

 安っぽいアパート特有の床のきしみ。気にせず一枚扉の浴室ドアに手をかける。僕は覚悟を決めるように深呼吸をした。

「ただいま」

 返事はない。

「入るよ」

 静かにドアを開けた。

「キュルル……クコココ」

 人ではない者が返事のような声を上げた。

“それ”は昨日と変わらずそこにいた。いや……

“彼女”は、人魚だ。

 人魚。言葉そのままだ。人魚がいる。ただ、皆がすぐに思い浮かべるような……例えば、美女の上半身に魚類の下半身っていう、そんな姿じゃない。全身は鱗に覆われていて、手足に水掻きがあり、首とあばらの周辺には魚のエラに似た器官がある。口は裂けており、鋭い歯が並んだ顔は醜く、吐く息は臭い。そういう奴が水風呂に浸かっている。

 なんて醜いバケモノなんだ。

 一応、長い髪がまばらに生えていて、胸元には女性の乳房のような膨らみはあるが、扇情的とは言い難い。

「キキ、クルルル」

 人魚は怯えた表情を見せた。この白濁した瞳は人間の心を読むのかもしれない。

「驚かせてごめん。ユミ、食べ物を持ってきたよ」

 ユミ。この人魚の名だ。僕のクラスメイトであり、幼馴染の名でもある。僕はユミに向かって調達してきたものを……人間の右腕を差し出す。人魚は、いや、ユミは、それを奪い取り、むさぼり始めた。目前のおぞましい光景を見ながら僕は考える。

 僕は、僕たちは、いったいどこで間違ってしまったのだろう。

 強い力で目を拭っても涙がこぼれそうになる。それでも僕は彼女に語りかけた。

「歌っておくれ。人魚が歌うという、滅びの歌を」

 こいつには利用価値がある。今からそれをこの村の連中に思い知らせてやろう。

【続く】

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