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夜を泳ぐものたち

もうすぐ僕の時間だ。

この世界はクソだ。だが、美しい。僕はそれを知っている。

窓に腰掛け、夕暮れが沈むのを眺めながら物思いにふける。

僕には友達がいない。学校も行ってない。家では酔った父に殴られ、不機嫌な母にはいつも罵られている。尊敬できるところが一つもない大人たち。何の記憶もない日々。希望なんかない日々。でも、僕はこの世界が好きだ。

「きた、きた、きたぞ」

太陽が沈み、宵闇が街に迫る。星が瞬き、鮮やかな月が雲の隙間から姿を現す。徐々に、徐々に。

ふわり、と体が浮いた。 

窓辺に掛けた僕の脚は宙に投げ出される。しかし地面には落下しない。それどころか僕の体はどんどん上昇して行く。どこまでも、どこまでも。

地面が急速に遠ざかる。僕の住む家は模型のように小さくなり、街の灯りは静かで淡い花火に変わる。海と山の境目が見えた。もうすぐ世界の終わりが顔を覗かせるだろう。でも、もう下は見ない。上を見る。上を見るんだ。

「わあ」

ため息が漏れた。星だ。星々の光が煌めく。こんなに近い。オリオン座にだって触れそう。僕は空を飛んでいる。自然と水の中を泳ぐかのように手足を動かす。

そう、僕は夜を泳いでいる。

いつからだろう。僕は夜になると空を飛べるようになっていた。昼のうちはだめだ。日が沈み、月が姿を現して星が瞬くころ、僕の体は重さを克服する。鳥のように自由に。そうして毎日夜空を飛んで世界を見て回っている。この美しい世界を。ああ、僕を苛む日常なんてちっぽけだった。家も、学校も、街も、国も、あっという間に置き去りにして自由になるんだ。無限の星空へと。

風の音だけが耳を撫でている。夜の空だけが僕を孤独にしてくれる。詩のひとつでも思い浮かびそうだ。そんなことを考えていると、突然、声が聴こえた。人間の声。

「ねえ、あなたも空を飛べるの?」

女の子の声だ。

振り向くと、外套を着た女の子が宙に浮いていた。

この子は空を飛んでいる。僕と同じだ。

【続く】

#逆噴射小説大賞2019

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