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真性S女 アトリエ・エス と行く万葉のたび

第四十八回 続・越中路篇


  春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ乙女

巻一九・四一三九、大伴家持ですね。
これもホント、すごく新しい歌、一回読めば意味が解ってしまいます。

詞書によれば、越中の守(カミ)であったころの作、庭の桃と李(スモモ)の花を眺めて詠んだとのことです。
で、ここでまた、大手日刊紙のコラム記事なぞを。

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東京の私立上野学園中学上高校で昨年まで国語を教えていた三井治枝さんは、大学在学中から40年にわたり、全国に点在している万葉集の歌碑調査を続けてきた
◆奈良時代、万葉の歌人・大伴家持は国守として越中に滞在した。三井さんは東京出身だが、家持ゆかりの地で「万葉のふるさと」と呼ばれる富山県氷見市が母の郷里だったことが、万葉集への機縁となった
◆調査を続けるうちに三井さんは、万葉歌碑についての、全国の所在地一覧のような資料がないことに気づいた。「あなたが出したら」という生前の母の言葉ぜんにも励まされ、このほど「全國萬葉歌碑」として出版にこぎつけた
◆1918基が都道府県別に掲載されている。私有地内の歌碑など除外したものもあるが、ほぼ網羅されている。夏や冬の休暇を使って訪ねた。各地にいる教え子や大学時代の友人が宿泊場所を提供し、運転手役ともなって調査を支えた
◆歌碑になった歌別では、山上憶良の「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」が最も多く22基あった。次いで大伴家持そのの「春の苑紅にほふ桃の花下をとめ照る道に出でたつ少女」で20基だった
◆戦前までに建立されたのは数十基程度で多くはない。昭和の後半からの「万葉公園」などと名付けられて一か所に何基も建てられる現象が、今も続いている。

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そうですかあ? 碑ねえ。
ここで思い出すのが、前にお話した早隠居ロッシーニの逸話です。

あるとき、市の予算で自分の銅像が建つと聞きつけたロッシーニ、
「ああ、(隠居でどうせやることもない自分が)朝から晩まで町の広場に立っててやるから、どうかその金、オレにくれないかな」

ま、碑文銅像の建立大いに結構、啓蒙のため有用に生かされてほしいものです。

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