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至る所にある手段の目的化……本末転倒な現象

手段の目的化という言葉を知っているでしょうか。たとえば,本来は現状を知るために何かの検査をしているのに,現状は二の次で検査の結果だけを良くしようとすることも,手段の目的化です。

また,その背景にいろいろな要因があるにもかかわらず,単純化した指標で評価してそれを重視すると,おなじような問題が生じることがあります。

今回は,そんな例をいくつか見てみましょう。

ランキングで評価する

大学をランキングする試みも,当たり前になってきました。ネットを探すだけでもいろいろなランキングが見つかります。

たとえば,とある国家資格の合格で大学の学部を評価するということを考えてみましょうか。このとき,指標の算出方法としては「合格者数の多い順に順位をつける」ことと「卒業者に占める合格者数の割合」とすることができそうです。そして,いずれにしても,多い順に大学を並べていきます。大学を並べると,順位が上の方から「何となくよさそう」と感じるものです。

さて,その情報を目にする側からすればどうでしょうか。国家資格を目指しているのでどの大学がいいのかを選ぼうとしている受験生やその親にしてみれば,合格のランキングが高いところをめざそうと考えるはずです。

ところが,たとえば「合格者が多い」というのは,単に学生が多いことを指すのかもしれません。大規模な大学であれば,国家資格の受験者数も多いわけですから,当然,合格者も多くなるというわけです。

では割合ではどうでしょうか。たとえば合格しそうにない学生を卒業させない,さらには退学させるシステムになっていれば,合格率は高くなります。教育内容に何も優れた点がなくても,模擬試験だけをおこなって学生を振り分け,「これは合格しそうにない」と思った学生に対しては授業の単位を与えないようにしたり,退学を勧告したりするのです。そうすれば,合格率は上昇します。

ランキングの基の数字が何なのか,またそこに何が反映しているのかを考えたほうがよさそうです。

面倒見のいい大学ランキング

「この大学に入れば,学生の面倒をよく見てくれる」という大学もあることでしょう。最近は,昔とは比べものにならないほど手厚く学生やその親にサービスを提供する大学もあります。また,しっかりと教育をおこなって,社会の役に立つ人材を育てることを標榜する大学も少なくありません。

では,そのような面倒見がよい大学ランキングをつくるとしたら,どのようにするのがよいのでしょうか。

よく見かける方法は,全国の高校の先生にアンケートをとって,大学を「面倒見の良さ」から評価してもらうというものです。とはいえ,全国に大学は数百校ありますので,1つ1つの大学をそれぞれ個別に評価するわけにはいきません。高校の先生とはいえ全く知らない,名前も聞いたことがないような大学もあるはずです。皆さんもそうですよね。

そうなると,高校の先生たちには調査の際に,大学名を挙げてもらう方式をとることになります。「面倒見の良い大学の名前を挙げてください」という調査方法です。すると,高校の先生たちは自分の知識やイメージから大学名を回答することになります。

さてこういう場合,あなたがもしも全国であまり知られていない大学の学長だったら何をするでしょうか。いくら教育の改革に成功して,地元の高校生や親や教師から高い評価を得たとしても,ランキングの上位に大学名が掲載されることはありません。県外の大多数の教師は,自分の大学の名前すら認識していないのです。

であるならば,大学としての戦略の一つは,高校の先生に名前を売り込むことになります。受験情報雑誌に大学の紹介記事を書いてもらい,ジャーナリストに大学を売り込んで文章にしてもらい,学校の先生が参考にしそうなネットのサイトに大量の広告を出していきます。人脈と広告費が必要です。

大きな問題は,たとえ実質が伴わなくても,日本中の先生が大学の名前を知ってくれさえすれば,このランキングに名前が乗るところにあります。ですから,多くの受験生がノミネート方式のランキングを参考にすればするほど,大学は教育の工夫や改革という実質よりも,人脈づくりや広告にお金をかけるようになるかもしれません。

これも,本来の目的が変わってしまうひとつの例です。

本末転倒な取り締まり

家の近くに,いつも警察が取り締まりをしている道路のポイントがあります。なぜそこにいるかというと,多くの運転者がつい間違えてしまうような道路の構造になっているからです。

標識の設置されている場所がわかりにくく,ついその標識を見逃してしまいます。見逃したからといって,いつも事故が起きるわけではないのです。たしかに道路交通法は守らないことになります。それを見つけたら,警察はその車を止めるべきです。

でも,ですよ。運転する側からしたら,もう少し標識をわかりやすいところにつけてほしいと思いますよね。その方が実際に事故を防ぐことにつながるはずです。その上で標識を無視する車を警察が止めるなら,理解できます。

しかし現実には,警察が捕まえないのは,見つけるのが難しい多くの人が見逃してしまうような標識をうまく見つけることができた人や,地元に住んでいて「あそこはいつも警察がいて捕まるかもしれない」ということを知っている人や,警察の無線を傍受して警告する装置をつけている人なのです。それは,事故を起こさない確率の高い人ではなく,運の良い人や捕まることだけを避ける人たちのことなのです。

警察官を管理する人たちは,より多くの道路交通法違反者を捕まえた警察官を高く評価します。警察官たちは,高く評価されるために数字を競い始めます。すると,彼らは事故とは無関係に,違反が生じやすい道路のポイントをマークするようになります。

それは,事故を減らすことに影響するのでしょうか。目的が変わってしまっていないでしょうか。

測りすぎ

世の中には,もやもやさせるようなことが少なくありません。「数値を出せ」「グラフで示せ」「エビデンスを示せ」という意見はありますが,出てきた数字が何なのか,使われている数字は何に使われるのかということを,少し注意深く見ておくことは大切です。

そういうことを考えてみるきっかけになるのが,この本『測りすぎ』です。

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