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当てているモノサシの種類に気づくこと

私たちはものごとを見る時に,何かの「モノサシ」を当てて見てしまうことがあります。そして,自分でもそのモノサシを当てながらモノを見ていることにあまり気づいていないようです。

たとえば,「この生徒は賢い」ということを発言することを考えてみましょう。この発言をするということは,この人は生徒を見る時に「賢さ」というモノサシを当てていることを表しています。

「この食べ物は好きではない」という発言をするということは,この人が食べ物を「好きかどうか」というモノサシを当てながら考えていることを表します。

何かを評価するときには,その評価を行う価値観が背景にあるということです。

良し悪しではなく他に目を

人を評価するときに,勝手に自分のモノサシを当てて評価してほしくない,と思うかもしれません。でもここでは,そういったモノサシを当てることが良いこととか悪いこととか,そういうことを言いたいわけではありません。

良くないなと思うのは,何でもひとつのモノサシだけしか使わないことではないかと思うのです。自分の中に複数のモノサシがあれば,ひとつのものを見るときにも複数の見方ができるようになります。そして,そのような複数のモノサシを用意することが,多様なものの見方につながるのではないかと思います。

多様性を認めるというと,「みんなちがってみんないい」のような言い方になりがちですが,そこで思考が止まってしまうような心配もあります。一人ひとりが違う存在だとしても,「では何が違うのか」と考えるとどうしても他の人と比較してしまうことでしょう。そこで「自分は今何で物事を評価しているのか」ということを自覚してみると,「じゃあ他の見方をしてみようか」という他のモノサシを使うことにつながっていきます。

背を高くする遺伝子

「背が高くなる遺伝子」という言い方をすることがあります。その遺伝子を持っている集団は,持っていない集団よりも少しだけ身長が高くなる確率が上がるようなことが観察される時に,そのような言い方をします。でも,遺伝子自体に「背を高くする」という機能そのものがあるとは限らないのです。

たとえばある遺伝子を持っていると,ほんの少しだけ足の骨が伸びるとしましょう。すると,その遺伝子を「背が高いかどうか」というモノサシから見れば,「背を高くする遺伝子」になります。でも,その同じ遺伝子を別のモノサシを当てて見ることもできます。つまり,「体重の重さ」というモノサシから見ると「体重を重くする遺伝子」になり,「足の速さ」というモノサシから見れば「足を速くする遺伝子」になり,「スタイルの良さ」というモノサシから見れば「スタイルを良くする遺伝子」になり得るのです。

「知能指数を高める遺伝子」なんていうのも,「勤勉性を高める遺伝子」なんていうのも,同じだと思います。ある同じ遺伝子が,知能のモノサシからはある評価をされ,勤勉性のモノサシからは別の評価をされる,ということは十分に考えられます。「○○の遺伝子」という言い方は,人間の都合で見た評価に過ぎないのです。

評価の両面

遺伝子だけではありません。人間がもつ肉体的構造が,モノサシの当て方によって違う評価になるということもあり得ます。

たとえば,人間の喉は肺につながる気道と胃につながる食道が同じ空間の先で分かれています。この構造は他の動物では見られないそうなのですが,「声を出す」というモノサシから見れば多様な発声をすることができる素晴らしい構造であり,「窒息」というモノサシから見ると最悪の構造です。毎年多くの高齢者が,誤飲に基づく肺炎で命を落としています。ダーウィンは皮肉を込めて「人間は窒息死に適応しているユニークな動物だ」と言ったそうです。

個性をモノサシから見る

将来を悲観的に捉えることは,精神的な安定や幸福感のモノサシから見れば「治すべきこと」になりますが,慎重にものごとを進めるべき仕事や勉強をうまく進めるというモノサシから見れば「望ましいこと」にもなり得ます。「不安だからもう一度確認しておこう」という行動につながる可能性があるからです。

勤勉であることは,雇用主からは「真面目に働く人」に見えますし,一緒に仕事をする人から見たら「融通が利かない人」に見えてしまうかもしれません。同じ人物も,どのようなモノサシを当てられるかによって,評価が変わってしまいます。

人間にモノサシを当てる

このように考えてくると,冒頭に書いたように,人間そのものもモノサシによって異なる評価となることは想像しやすくなるのではないでしょうか。

モノサシは複数あります。いま,自分がどのようなモノサシでそれを見ているのか,という一歩引いた視点を持つことで,それではない別のモノサシを想像しやすくなるのではのではないかと思うのです。

「人をモノサシを当てるように見るのは望ましくない」という意見があることは承知しています。しかし先にも述べたように問題になるのは,特定のモノサシ「だけ」で人を判断することではないでしょうか。

そして,どのような人でも,新しいモノサシを当てればまた新しい評価がなされるようになるのです。現在は社会のなかで評価がなされていない人も,それはその人を適切に評価するモノサシが存在していないだけなのかもしれません。そう考えることで,未知のものに対する評価の準備もできるようになりそうです。

豊かで多様性を許容する社会というのは,多様なモノサシを用意することができる社会だと言い換えることができるかもしれません。「〇〇だけでいい」という考えから自由でいたいものです。


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