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第四章 Jリーグ 名古屋グランパスエイト トヨタ自動車サッカー部出向

1990年イタリアワールドカップを目指し代表チームで活動していた時に何人かのサッカー関係者から

「現状ワールドカップに出るには、予選を通過するより日本で開催する方が早いよ・・・」
「アマチュアリーグの選手達じゃ無理だよ・・・」

といった会話を耳にしながら

「そんなこと言わないでよ・・・」
「こっちは今、必死に闘ってるのに・・・」

とはいえ、実際には日本代表チームの選手を取り巻く環境は、当時のJLS読売クラブなどに比べても残念ながら良いとは言えない状況でした・・・・

日本でのワールドカップ開催は11年後の2002年日韓ワールドカップまで待たなければなりませんでしたが

1994年“ドーハの悲劇”
あと一歩

1998年“ジョホールバルの歓喜”
自力で初出場!

日本サッカーのプロ化は、私が代表に帯同し始めた1998年頃から準備がスタートしていました

日本代表の一員として闘い世界との大きな格差を実感し

「日本のサッカー界が今後はどの様に進化、変化していくんだろう???」

そんなことを漠然と思いながら所属していたスポーツマッサージ治療院での活動をしていた時に

代表の海外遠征などで団長として帯同して下さっていたサッカー協会の平木隆三さんから

平木さん
「Jリーグできるの知ってる?」


「そうみたいですね」

平木さん
「名古屋グランパスの監督やることになったから一緒にやらないか?」
「代表で頑張ってたもんな!」


「本当ですか??」
「宜しくお願いします!!」

代表帯同を決めたときと同様ほぼ即決でした!!!

人生の分岐点的重大な決定はある日突然、人づてに来ることが多いですね

「代表帯同時のガンバリは無駄ではなかった」

何かと大変な代表帯同でしたが、結果的にはシッカリと見ていてくれた人がいました

人との出会い、ネットワークとても大切ですね!!

1991年9月30日

所属していたスポーツマッサージ治療院を退社し名古屋グランパスエイトとプロ契約をしました

実際は名古屋グランパスエイトと契約し母体となるJSLトヨタ自動車サッカー部への出向でした

もしかすると、スタッフの契約としては平木さんに続き第二号だったかもしれません

当時、トヨタ自動車サッカー部は富士山のふもと、静岡県裾野市にあるトヨタ自動車東富士研究所を本拠地として活動していました

私も奥さんと共に裾野市に転居しました

現在の東名裾野インターのすぐそばにある、トヨタの社宅へと引っ越しましたが・・・

結構、年代物でお風呂桶が90㎝×90㎝の正方形だったのに驚きでした(笑)

しかし、蛇口から出てくる水道水は最高に美味しかったです!!

なんせ富士山の地下水ですから!!
まるで蛇口が、まんまウォーターサーバーでしたね(笑)

グラウンドは富士の裾野標高約300m位にあり、毎日富士山の一合目に向かって登山する感じでした

クラブハウスから社宅までは、下りの一本道で信号もありませんでした

ある日、“クラブハウスから社宅までニュートラル状態で帰れるかチャレンジ”をしてみようと思い立ち実行してみると・・・

思った以上に快適なドライブができました

エンジン音も無く、窓を全開にすると、虫の音と綺麗な空気がスーッと入ってきて贅沢で神秘的なひと時を堪能できた記憶があります!!


次回はコニカカップ決勝です!!


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