小説を書くために小説ばかり読んでいてはいけない

蓼食う本の虫というサイトを運営している。ここでは、僕を含めて様々な人が、小説を書いたり読んだりするのが楽しくなるためにはどうしたら良いだろうか、ということを考えている。そして、その結果を記事としてお届けしている。

ここでは、小説書き方みたいなことも解説していたりする。書き手はほとんどプロの作家ではないけれど、全く小説が書けないという人や、書き手と境遇が似ている人たちには、参考になるのではないかと思う。小説を書くのが上手になるためには方法が無数にあると思っていて、僕らは、個人ベースの上達サンプルを少しでも多くお届けしたいという気持ちでやっている。

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しかし、小説を上達させるための一番の方法が「インプットの量を増やす」ことだというのは、どうやったって揺るぎない。あれやこれやと手を尽くすのも良いが、まずは自分以外のコンテンツがどうやって構築されているのか、そのテストケースを自分の中に蓄積していった方が良い。

しかし、小説を書くために小説ばかりを参考にしていれば良いというわけではない。もちろん、文学には大きな流れがあって、それを踏襲して書くことには文学史的に大きな意味がある。また、売れているラノベから売れている要素を抜き出し、再構築することで、ベストセラーを再現できるかもしれない。しかし、小説書きが小説ばかり読んでいれば、それは有限の組み合わせの中でコンテンツを再生産しているに過ぎない。もっと、他のジャンルのコンテンツも摂取していきたい。

最近、宇野常寛『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』を読んでいる。ここで、戦後のマンガとアニメの新しい文法を作った手塚治虫について、以下のように書かれていた。

 戦後日本のマンガとアニメ――この二つの分野はともにアメリカの映像文化の模倣からはじまって国内で独自の進化を遂げたものです。戦後日本ではハリウッドの劇映画の模倣として独特のコマ割りの文法を持つ戦後マンガが発展し、ディズニーのアニメーションの廉価版として作られるリミテッドアニメーションがテレビで大量に放映されるようになり、そのなかで日本独自の手法を高度に発達させることになります。戦後マンガとアニメーション――この二つの分野はともにハリウッドの映画の奇形的な進化のようなもので、そしてこの輸入と奇形的な進化を担ったのはどちらも手塚治虫です。手塚は戦後マンガの文法の開発者であり、そしてリミテッドアニメーションの導入者でもあった。そしてこの二つの分野は半世紀近くの間に大きく発展し、世界的に見てもユニークで質の高いものを膨大に産み出すことになったわけです。

つまり、手塚治虫は日本のマンガ的な手法を発展させてマンガを描いていたのではなく、ハリウッドの劇映画を模倣しながら描いていたということが伺える。

僕は演劇をやっているが、演劇でも同じようなことが言える。だいたい、演劇人の中で、演劇というものそれ自体が好きでやっているという人はあまり見かけないような気がする。僕らより少し上の世代なら、哲学や批評といったある種アカデミックな情熱の出力先が演劇であったというような気がする。また、僕と同じくらい、あるいは僕より下の世代は、アニメやお笑い、小説といったエンタメに感化された人たちが、自分たちができる範囲のエンタメということで、小劇場での演劇づくりに勤しんでいるという印象だ。

もちろん、演劇には長い歴史があり、作劇法にもそれなりの型がある。しかし、演劇ばかり観ていても、その人の作る演劇は面白くならないだろう。むしろ、あらゆるコンテンツを参考にした方が良い。マンガやアニメや小説をいかに盛り上げるのか、ということはまさに「演出」に他ならないし、効果的なシーンを作り出すためには音楽に対する興味も必要だろう。また、舞台装置を作るのに的確な指示を出すためには、美術に対する知識も欠かせない。他のあらゆる芸術分野から学び、それを出力できるのが演劇だと思う。

話が少しそれた。そして、他の芸術分野から学んだ方が良いのは、小説を含む文芸分野も同じことだ。たとえば、僕は最果タヒという詩人が好きなのだが、彼女は日本文学というよりも、どちらかといえばJ-POPなどのポップカルチャーが背景にある人だという印象を受ける。彼女が詩ばかりを読んでいたとしたら、決して今のような彼女の作品を読むことはできなかっただろう。

また、出展は定かではないのだが、劇作家で小説家の戌井昭人は、小説を書く際に「読み返さずにとりあえず書き続けていく」のだそうだ。これは、彼の演劇の制作手法を小説にも導入したものらしい。確かに彼の小説は、演劇的な不穏さとスピード感に満ちている。

要するに何が言いたいのかというと、小説を書く人は小説ばかりを読むのではなく、他のジャンルのコンテンツも積極的に摂取した方が良いということだ。また、小説を読むにしても、自分が興味のない分野のものを読むと、学びが大きいかもしれない。たとえば、自分のメインフィールドがライトノベルだとして、そこに純文学の手法を持ち込むことができたら、ライトノベルは新たな展開を迎えるかもしれない。

人間は、既存のものの組み合わせでしか新しいものを作り出せない、というのは言い古され過ぎている言葉であるが、しかし真実であるとも僕は思う。そして、あらゆるジャンルの知識や文法をキメラ的に結合させたものが、新しい時代を創っていくのではないか。多少荒削りでも良い。それぞれが好きなものや嫌いなものをしっかりと受容し、批判し、そして出力できれば、小説や文芸はもっともっと豊かになっていくだろう。



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